2013年12月3日火曜日

たべものをつくる



ひさびさに少し時間ができたのでさいきん起きたこと、思ったこと、出会ったことなど。

場所は熊本から岡山・愛媛へ。

熊本は6月からずっと回っていて、ひととおり終えた感じ。

まいにちたべものをつくっている人の場所へ行く。スーパーで売っているたべもののこと、わたしはどこまで知っていただろうか。

ハウス農家地帯を回ると、整然と並んだトマトならトマトの木にいかにずらりと同じ規格のものがたくさんつけられるかということに皆が腐心しているのかがわかる。

トマトって普通に作ったら夏のたべものだ。でもわたしたちは一年中食べたい。一年中作りたい、というよりは一年中食べたい人たちがいるから一年中つくるひとたちがいなければならなくて、冬にトマトをつくるには、熊本であってもハウスで、そしてたくさん暖房を焚かなければできない。
一年間にかかる資材費と、油代の額を聞いて驚いた。

わたしは知らなかったけれど、おととしくらいにどこかの偉い人がテレビでトマトの効用について一説ぶったらトマトのブームが来て、たくさんトマトが売れるようになった。だからトマト農家はたくさんの人が食べられるようにとトマトをたくさん作ろうとする。設備投資をたくさんして、雇用を入れて規模を拡大した人も多かった。でも、ブームはブームだからこれからまただんだんと消費は減っていくのではないかという人もいた。

規格についても、同じ大きさのものしか市場には出せないから揃いがよくないと困る。食べる分には大きさが違っても全く困らないと思うのだけれど、スーパーでは色づきとか、形とか、大事だから、市場や農協が農家にそれを要請する。直接お客さんに野菜を出しているという例外的な人でなければ、形、大きさというのは致命的なものなんだと思った。

熊本で取れたトマトを東京まで運ぶのは時間がかかるからほとんどの人はトマトを完熟ではなく青いうちに収穫する(市場に出して、スーパーに並ぶまでに追熟させる)。完熟トマトと追熟味は全然違くなるとのこと。

おんなじハウストマトをつくっている人でもいろんな人がいて。
農協が薦めたとおりの防除をして、買ってきた化成肥料を使って、土がだんだん痩せるようなつくりかたをしている人もいれば、自分たちで菌をつかって微生物の力で土を肥えさせようとする人もいる。規模を拡大させるために外国人労働者を安い賃金で雇ってたくさんの面積をこなす人もいれば、家族で手の回るぶんだけでいいのだという人もいた。中国人やベトナム人をたくさん入れて(研修生として入れるとさらに安くなる)トマトをつくっているようすは少し気味が悪いと思ってしまった。

農協も地域によって色が違うとは思うのだけれど、農家のための農協というよりは農協のための農家になっているのではないかと言う農家の人たちは多かった。
防除や農薬についての指導というのは如何に農家をもうけさせるかという点ではなく、いかに農協を通じて資材を買ってもらうかというところに重点が置かれているのではないか、とか。
それを意識的に見抜いて、自分なりのやり方をして、自分なりに付き合っている人と、農協さんが言っていたからねとむかしからの慣行栽培を続ける人と。たべものをつくることに情熱を持っていやっている人もいれば、疲弊して、言われるままやるしかないような人もいた。




宇城市の小川町では、有機で生姜をつくっている森田さんという人に会った。森田さんの生姜を使っているひとたちが、「これは森田さんの生姜なの」と、うれしそうにそのことを話すのが印象的だった。写真はお寺で出してもらったお茶請け。お湯でといた葛に森田さんの生姜と蜂蜜をかけていただいた。

八代市の東陽町でもたくさん生姜つくられていたけれど、ほとんどの人がガス消毒をして土を無菌状態にさせてつくっていた。連作障害を起こさないように。毎年たくさんの生姜がつくれるように。そのときはへえ、と思って聞いていたけれど考えてみると、無菌状態にしてしまうって大変なことだ。わたしのからだの中にだって、いい菌、わるい菌、たくさんの菌がいるけれどそれを良いも悪いも全部殺してしまうくらい強い薬を土に入れているわけだ。
森田さんは、見えないところで薬をかけたものを食卓で食べれたとしても食卓で薬かけたものはたべないでしょうと言っていた。わたしたちが普段買っているものは、前者のようにしてつくられているものも多いだろうと思う。淡路島のモンキーセンターのサルがアメリカから来た作物を食べるようになってから奇形が増えたのはポストハーベストの影響だったというマクガバン報告の話や、玄米生食を心がければ7年で浄化される話も教えてもらった。

農家の人たちは病気を恐れているのだけれど、その対処の仕方というのは人間が病気になった時の対処の仕方がいろいろあるように、ひとによって全く違う。農協の言うとおり防除をする/肥料をふるのは、医者の言うことを鵜呑みにしてじぶんのからだの声を聞かず薬を飲むことに似ているような気がする。

森田さんが有機農業を始めたのはこうした思いもさることながら、牛肉オレンジ自由化などの外圧を受けたこともあったそう。そうした情勢に左右されない農業をやろうと思うと、化成肥料や農薬など、外から来たものをたくさん使う慣行栽培は難しい。そういうものに頼らずに、土を肥やして野菜をつくっているのであれば、だいたいのものは自給できる。
あと、有機野菜は高い、というイメージがあるけれど、自分はその年の出来不出来に関わらず野菜の値段を変えないで、商品化に走らないように、「たべもの」をつくっているんだと言っていた。
たべものと工業製品を区別してたべものをつくっている人って案外少ない。指導された通り、もしくは利益を最大にするために野菜をつくっている人たちをみると、工場と何が違うのかなと思うこともある。もちろん技術というのはどちらにとっても必要だけれど、たべものはいのちなので、物理性だけではなくて生物性や自然を理解しないとつくれないものなのだ。


トマト農家の人で、安全性や環境に配慮した農業は大事だと思っているけれど、いちばん重要視しているのは生産力をあげて、みんなが食べられるものをつくる、ということだと話してくれた人もいた。
TPPがはじまったら、多分低収入の人は安いものしか買わなくなる。だからこそ、自分も収量をある程度保ち、多くの人が食べられる値段で売れるようにしておきたいのだと言っていた。環境に配慮してつくったものでも高すぎて近所の人が買えないものになったら意味がないと。

たしかに、有機野菜を買える人ってたべものに気を遣ったりお金を使ったりする余裕のある人が多い気がする。
それでも、栽培方法というのは、わたしたちが要請しているものでもある。というかわたしたちの要請が本当に大きい。農家の人たちのことを知らず、農家がどうやってたべものをつくっているかを知らず、そもそも自分が食べているものが何でできているか、どこでできているかも特に考えずに値段という価値基準の元だけに、自分のからだに入れている人たちってたくさんいるんじゃないだろうか。わたしだってひとのことを言えたものではないけれど。


じぶんのからだに入れるものから世界を見ると、いろんなものが見えてくる。
たべものは、わたしを生かすためのいのちで、いのちに優劣はないから何にでもありがとうごめんんなさいあいしていますと感謝してからだに入れたいと思う。
それでも、どんなふうにじぶんのからだをつくるいのち、たべものがつくられるといいのか、ということは農家の人たちだけでなく、わたしたちこそが考えていかないといけないと思うのだ。

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