2014年9月20日土曜日

ホトケのばあさま

村を回っているとたまにホトケみたいな、やーさしい、謙虚で悟りきったばあさまに出会うことがあるけれど、どんなふうな人生送るとあんなふうな感じになるのだろうか。
見知らぬ私が玄関先にバイク乗り付けていってもあーはいはい、みたいな感じで全然動じず、それでいてお茶やら漬物やら出してくれて。

こうありたいと自分が思うようにいきるのはなかなかに大変なことで、毎日が弱い心とのたゆまぬ戦いであるなあと思います。


このあいだ、宮本常一について書かれた本を読んでいたら、彼が故郷の周防大島を離れて大阪に出るときに父親から言われたという旅の「十か条」が書いてありました。


(1) 汽車へ乗ったら窓から外をよく見よ、田や畑に何が植えられているか、育ちがよいかわるいか、村の家が大きいか小さいか、瓦屋根か草葺きか、そういうこともよく見ることだ。駅へ着いたら人の乗りおりに注意せよ、そしてどういう服装をしているかに気をつけよ。また、駅の荷置場にどういう荷がおかれているかをよく見よ。そういうことでその土地が富んでいるか貧しいか、よく働くところかそうでないところかよくわかる。

(2) 村でも町でも新しくたずねていったところはかならず高いところへ上ってみよ、そして方向を知り、目立つものを見よ。峠の上で村を見おろすようなことがあったら、お宮の森やお寺や目につくものをまず見、家のあり方や田畑のあり方を見、周囲の山々をみておけ、そして山の上で目をひいたものが、そこへはかならずいって見ることだ。高いところでよく見ておいたらみちにまようようなことはほとんどない。

・・・・・・・

(10) 人の見のこしたものを見るようにせよ。その中にいつも大事なものがあるはずだ、あせることはない。自分のえらんだ道をしっかり歩いていくことだ。


一枚の写真から、車窓からの一瞬の風景から、その村やその村に住む人々のことを知る、わかろうとする、記憶していく彼の営みはとても真似できるものではないけれど、毎日毎日新しい場所で知らない人たちに会う仕事をしているのであれば、知るとか見るといったことは、もっともっと深い場所で為されるべきだと思う。
という思いばっかり。


今日は朝寝坊(いつもどおり目覚めたけどうなされたのでもう一度寝た)のあと、部屋の片付け(まりりんからの手紙に掃除が良いとあったから。特にトイレがいいとあったけれど林田さんがきれいにしてくれているのでトイレットペーパー三角にするくらい)。
お手紙書いて、絵も少し描いて、荷物をまとめて実家に送り、買い物、箱崎の本屋さんへ。
3時間くらい本屋さんにはいたけれど買ったのは加藤さんの呼吸の本だけ。本屋さんには本当にたくさんの主張が並んでいる。
帰りみち、かなたさんから来たメールにじーんとして、息を吐き吐き、マッサージしてもらって寮。


宮本常一も、ホトケのようなばあさまもいまのわたしには遠く遠くだけれども、息を吐いて吸って、吐いて吸って、いまを生きることを積み重ねていくしかないなあと。
ばあさまになるまではまだ随分と時間はあるし。




今週は大分の由布に居ました。
由布川渓谷にて。




電線がない景色は日本昔話に出てきそうだった。


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