2015年5月2日土曜日

引き伸ばされた春

春が引き伸ばされたのか、冬が引き伸ばされたのかわからないけれど、3月終わりに東京で満開の桜を見てから雪の積もる長野の山奥に一カ月、帰り際になってようやく桜が咲きました。


3月終わりに東京で見た桜。


4月末の白馬で。

この一か月間のミッションはふたつ下の新人研修の面倒を見るというもので、人の面倒をこれまでしっかりみたことないわたしのかねてからの懸案であったのだけれど、結局、人に何か教えるというよりもわたし自身が教えてもらってばっかりの一か月でした。


4月の半ばに来てくれたひまわり会のおばあちゃんたちが持ってきてくれたお手製の料理たち。山菜たくさん使ってくれているけれど、それは去年までの、保存してとっておいたもので作ってあって、小谷村で山菜が取れるようになるのは4月末くらいじゃないかな。一生懸命保存しておいた春の恵みや夏野菜の干したものを使って丁寧に料理して出してくれた。ジャガイモのじゅうね(えごまのこと)和え、美味しかった。
ぼたもちは「半殺し」で叩いたものがこの辺りの主流。春の彼岸には牡丹が咲くからぼたもちで、秋の彼岸は萩が紅葉するからおはぎなんだと教えてもらった。同じものなんだ。

内山さんも上野村に春が来ると山菜がたくさん出てくるからそれだけで安心する(山中の暮らしはそんなに牧歌的ではないけれども)と言っていたけれど、長い長い冬、寒くて暗い冬をどうにかこうにか乗り越えて迎える春というのはどうしたってうれしくて、雪解けとともに顔を出すふきのとう(東北では「ばっけ」、長野のお母さんたちは「ちゃんめろ」って呼ぶ)やタラの芽、独活、こしあぶら、行者にんにく、セリ(どれも好き!天ぷら最高)は春を告げる福音に思える。まだ葉のつかない木々も、膨らんだつぼみですこし色づいている気がする。森の動物たちも動き出す、ひとびとも動き出す。


ニホンリスは冬眠するのかな?とにかくよくご飯食べに喫茶室前の小屋に来ていました。

山に山菜を摘みに、トラクターが畑に、野菜を植えつける、田んぼに水を入れる。
帰りみち、白馬から長野へ行く電車で、ドアが開いた途端カエルの鳴き声が一斉に聞こえて、もうここは田んぼに水が入ったんだなと薄暗がりの景色をぼんやり見た。
ねむっていた熊も、すこしゆっくりだった人たちも、五感や代掻き馬(まだらに雪解けした山に馬の姿が見えるころが代掻きをするタイミングだというのが昔からの言い伝え)なんかを合図に、ネジをまき、ぱたぱたと動き出す、そんな気配があふれていて、もうどうしようもなくわたしだってそわそわしてくるのでした。

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一カ月間、長野の山奥にいる間、2年前のことを思い出しながら、新人の話や研修中来てくれる講師の話を聞いていた。それは、今まで2年間村を回ってきたことを再確認するようなそんな貴重な時間で。
胃がんの手術を受けて少し小さくなっていた池田玲子さんはさらに気迫を帯び、あのときも同じように3か月、3年、7年で峠が来ると告げられたなとそんなふうに思い出す。そして箱膳でお箸の取り方がなっていないと同じようにおしかりを受けて、叱咤叱咤激励激励。
それは新人の子たちに対してだけではなく、3年坊主のわたしにも届いてくる言葉で、いただきますの裏側にあるものをチビたちに伝えなければ死んでも死にきれない、灰になれないと、彼女のその気迫にわたしは頭が上がらない。

先人たちの食に対する執着というか、知恵や技術にはすごいものがあったんだなと思わせてくれたのが木村さんの講義。ひとは生きるために食べるのだけれど、食べられれば何でもいいわけではなくて、そこには子どもを喜ばせたり、家族みんなの身体をいたわったり、田植え作業をねぎらったり、日常の苦楽すべてが詰まっている。
「おいしい」という表現もいろいろ。胡桃は子どもたちの大好きな味。東北では美味しいものを食べるとうれしそうに「胡桃味がする」と言う。
ハレとケでそれぞれ主婦たちの腕は毎日フル回転で、同じものはなくて、季節ごとにそこにある恵みをどう生かすかという知恵が溢れまくっていたのだろう。
今から100年前くらいの食文化を残そうと「日本の食生活全集」を編集した木村さん曰く、「コメはいろんな地域食材を呼び寄せる」。
麻をつくっている湿地でえびじゃこが取れる。そのころダイコンは間引きの時期。間引いたダイコン、えびじゃこ、里芋、米、麦と大豆の味噌を重ねて釜で蒸し上げてむしあげ雑炊をつくる。海の幸、山の幸、畑の産物を結集させて、食べて、生きていた時代の話。
屋敷周りの豊かな畑や木々、水場。小さな村でエネルギーも食べ物も、排泄物も循環して、そこの風土を十二分に活かして作られた特産品なんかは結構全国的なネットワークで流通していく。塩の道もそう。
流通の過程で文化も伝播していく。小さな村だけど、そこで閉じているわけではなかった。


小さい頃に読んだ菊池日出夫さんの「さんねんごい」。
屋敷まわりの絵がすごくいい。山があって川があって集落があって田んぼ、畑。家では牛や馬が飼われている。鳥が飛んで魚が泳ぐ。子どもたちが走る。大人たちは田んぼや畑に出ている。
改めて読んでみて知ったけど菊池さんは長野県佐久の出身の人だった。だから鯉なのかと納得。

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小谷村で聞いた内山節さんの話もとてもよかった。彼の本を読むと、農村で生きることに誇りが持てるようになる、毎日の日々の暮らしや働きに光が当たるようだ、と熊本でお茶農家を営むお母さんが言っていたようだけれど、彼の講演もユーモアと素朴な愛にあふれていた。彼を見て「春の熊のような人だ」と言った新人がいたけれど、本当にそんな感じ。こんな時代でもなんとかなるみちはあるんじゃないかと、それぞれがそれぞれの場所で、あるもので協力しあってやっていくしかないよねとやさしく背中を押されたような。
最近漢方が流行っているけれど、昔はどこでも通用する薬草などはなくて、その土地で一番生命力のある植物がその土地で生きる人たちの一番の薬になっていたという話にも、ものすごく合点がいく。
どうして、よそのものやお金に頼ることしかできなくなってしまったんだろう。高度経済成長とか、そんなものの間に、知らぬ間に奪われていった知恵がたくさんあるんだろうなと思った。学んで、少しずつでも取り戻すことはできるんだろうか。

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雪の残る小谷村から実家に帰ったら、浦島太郎みたいで、もうこちらは青青青の波。
5月はすべてが美しい。
木の葉を揺らしながら届く5月の風は、それはそれは気持ちよくて、木々の呼吸もそこにあるからなのかも知れない。さざめく音は子守唄。昼寝最高。

ますみさん、今年もうちのモッコウバラは高らかに咲いています。


ニャーがいなくなってからもう1年。

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