2015年5月2日土曜日

引き伸ばされた春

春が引き伸ばされたのか、冬が引き伸ばされたのかわからないけれど、3月終わりに東京で満開の桜を見てから雪の積もる長野の山奥に一カ月、帰り際になってようやく桜が咲きました。


3月終わりに東京で見た桜。


4月末の白馬で。

この一か月間のミッションはふたつ下の新人研修の面倒を見るというもので、人の面倒をこれまでしっかりみたことないわたしのかねてからの懸案であったのだけれど、結局、人に何か教えるというよりもわたし自身が教えてもらってばっかりの一か月でした。


4月の半ばに来てくれたひまわり会のおばあちゃんたちが持ってきてくれたお手製の料理たち。山菜たくさん使ってくれているけれど、それは去年までの、保存してとっておいたもので作ってあって、小谷村で山菜が取れるようになるのは4月末くらいじゃないかな。一生懸命保存しておいた春の恵みや夏野菜の干したものを使って丁寧に料理して出してくれた。ジャガイモのじゅうね(えごまのこと)和え、美味しかった。
ぼたもちは「半殺し」で叩いたものがこの辺りの主流。春の彼岸には牡丹が咲くからぼたもちで、秋の彼岸は萩が紅葉するからおはぎなんだと教えてもらった。同じものなんだ。

内山さんも上野村に春が来ると山菜がたくさん出てくるからそれだけで安心する(山中の暮らしはそんなに牧歌的ではないけれども)と言っていたけれど、長い長い冬、寒くて暗い冬をどうにかこうにか乗り越えて迎える春というのはどうしたってうれしくて、雪解けとともに顔を出すふきのとう(東北では「ばっけ」、長野のお母さんたちは「ちゃんめろ」って呼ぶ)やタラの芽、独活、こしあぶら、行者にんにく、セリ(どれも好き!天ぷら最高)は春を告げる福音に思える。まだ葉のつかない木々も、膨らんだつぼみですこし色づいている気がする。森の動物たちも動き出す、ひとびとも動き出す。


ニホンリスは冬眠するのかな?とにかくよくご飯食べに喫茶室前の小屋に来ていました。

山に山菜を摘みに、トラクターが畑に、野菜を植えつける、田んぼに水を入れる。
帰りみち、白馬から長野へ行く電車で、ドアが開いた途端カエルの鳴き声が一斉に聞こえて、もうここは田んぼに水が入ったんだなと薄暗がりの景色をぼんやり見た。
ねむっていた熊も、すこしゆっくりだった人たちも、五感や代掻き馬(まだらに雪解けした山に馬の姿が見えるころが代掻きをするタイミングだというのが昔からの言い伝え)なんかを合図に、ネジをまき、ぱたぱたと動き出す、そんな気配があふれていて、もうどうしようもなくわたしだってそわそわしてくるのでした。

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一カ月間、長野の山奥にいる間、2年前のことを思い出しながら、新人の話や研修中来てくれる講師の話を聞いていた。それは、今まで2年間村を回ってきたことを再確認するようなそんな貴重な時間で。
胃がんの手術を受けて少し小さくなっていた池田玲子さんはさらに気迫を帯び、あのときも同じように3か月、3年、7年で峠が来ると告げられたなとそんなふうに思い出す。そして箱膳でお箸の取り方がなっていないと同じようにおしかりを受けて、叱咤叱咤激励激励。
それは新人の子たちに対してだけではなく、3年坊主のわたしにも届いてくる言葉で、いただきますの裏側にあるものをチビたちに伝えなければ死んでも死にきれない、灰になれないと、彼女のその気迫にわたしは頭が上がらない。

先人たちの食に対する執着というか、知恵や技術にはすごいものがあったんだなと思わせてくれたのが木村さんの講義。ひとは生きるために食べるのだけれど、食べられれば何でもいいわけではなくて、そこには子どもを喜ばせたり、家族みんなの身体をいたわったり、田植え作業をねぎらったり、日常の苦楽すべてが詰まっている。
「おいしい」という表現もいろいろ。胡桃は子どもたちの大好きな味。東北では美味しいものを食べるとうれしそうに「胡桃味がする」と言う。
ハレとケでそれぞれ主婦たちの腕は毎日フル回転で、同じものはなくて、季節ごとにそこにある恵みをどう生かすかという知恵が溢れまくっていたのだろう。
今から100年前くらいの食文化を残そうと「日本の食生活全集」を編集した木村さん曰く、「コメはいろんな地域食材を呼び寄せる」。
麻をつくっている湿地でえびじゃこが取れる。そのころダイコンは間引きの時期。間引いたダイコン、えびじゃこ、里芋、米、麦と大豆の味噌を重ねて釜で蒸し上げてむしあげ雑炊をつくる。海の幸、山の幸、畑の産物を結集させて、食べて、生きていた時代の話。
屋敷周りの豊かな畑や木々、水場。小さな村でエネルギーも食べ物も、排泄物も循環して、そこの風土を十二分に活かして作られた特産品なんかは結構全国的なネットワークで流通していく。塩の道もそう。
流通の過程で文化も伝播していく。小さな村だけど、そこで閉じているわけではなかった。


小さい頃に読んだ菊池日出夫さんの「さんねんごい」。
屋敷まわりの絵がすごくいい。山があって川があって集落があって田んぼ、畑。家では牛や馬が飼われている。鳥が飛んで魚が泳ぐ。子どもたちが走る。大人たちは田んぼや畑に出ている。
改めて読んでみて知ったけど菊池さんは長野県佐久の出身の人だった。だから鯉なのかと納得。

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小谷村で聞いた内山節さんの話もとてもよかった。彼の本を読むと、農村で生きることに誇りが持てるようになる、毎日の日々の暮らしや働きに光が当たるようだ、と熊本でお茶農家を営むお母さんが言っていたようだけれど、彼の講演もユーモアと素朴な愛にあふれていた。彼を見て「春の熊のような人だ」と言った新人がいたけれど、本当にそんな感じ。こんな時代でもなんとかなるみちはあるんじゃないかと、それぞれがそれぞれの場所で、あるもので協力しあってやっていくしかないよねとやさしく背中を押されたような。
最近漢方が流行っているけれど、昔はどこでも通用する薬草などはなくて、その土地で一番生命力のある植物がその土地で生きる人たちの一番の薬になっていたという話にも、ものすごく合点がいく。
どうして、よそのものやお金に頼ることしかできなくなってしまったんだろう。高度経済成長とか、そんなものの間に、知らぬ間に奪われていった知恵がたくさんあるんだろうなと思った。学んで、少しずつでも取り戻すことはできるんだろうか。

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雪の残る小谷村から実家に帰ったら、浦島太郎みたいで、もうこちらは青青青の波。
5月はすべてが美しい。
木の葉を揺らしながら届く5月の風は、それはそれは気持ちよくて、木々の呼吸もそこにあるからなのかも知れない。さざめく音は子守唄。昼寝最高。

ますみさん、今年もうちのモッコウバラは高らかに咲いています。


ニャーがいなくなってからもう1年。

2015年3月23日月曜日

名を知るは愛のはじまり

 ますみさんが去年の春、花の名前を覚えて喜ぶわたしにそんなことを言ってくれたのだった。

去年は2月、3月と沖縄にいたから梅の花を見たのは2年ぶり。
ひさびさに見てああすごく好きだなあと思いました。つぼみもまあるくて愛らしい。
つげ義春のような寒くて暗い冬をすぎて、カマキリのぐらぐらを経て出会う春の色はどれもこれも感動的。


寮の前で香る沈丁花のにおいに心躍り、



寮の近くの道路脇でいつも花を植えているおばちゃんの庭には野の花が満開。







マンサクに始まり、蠟梅、さんしゅうゆ、菜の花、トサミズキと黄色の花がぴかぴか。

マンサクは春のはじめに咲くからマンサクなのだよと教えてもらう。東北でいう「まんず」「咲く」からマンサク。
トサミズキの名前も教えてもらう。きれいだきれいだとわたしがはしゃいでいたら、集落に花木をたくさん植えていたおじさんが「持ってきな」と持たせてくれた。

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先々週は、福岡県の久留米市へ行った。
園芸が盛んなところで、フィリピンの実習生を何人もつかって小松菜や水菜や春菊などの葉物をたくさんたくさんつくる。これがいけいけどんどんか、というほど、若い人たちに活気がある。TPPも葉物には直接影響ないだろうとあまり憂うこともなく、アルファロメオとか家先にあったりする。
前のわたしだったら相当ひいていたんじゃないかと思うけれど、そうやってそこの地で元気に暮らしている人がいることはいいことじゃないの、それはそれで、そういう農家だって必要なんだと思ったような。茨城の鉾田を回っていたことを思い出して、あそこでつらかったこともなんだかこうしてつながっているんだなあとか。

久留米で出会ったバラ農家のお父さん、「葉物屋さんはいま需要あるし元気あるけど、花農家は今の時代元気ないよ」と言っていた。確かに、バブルの時代と比べると、花を飾ったり愛でたりすることにお金を費やす人ってきっと減っているのだろうな。わたしもバラを買って飾ったりする習慣はないけれど、その前の週に会ったバラ農家のお家で見させてもらったバラがびっくりするくらいきれいで、いい匂い。お願いして1本100円でいただいたのだ。お腹はいっぱいにはならないけれど、美しいものはこころを満たしてくれると思う。



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翌週は、大分県日田市へ行く。
わたしは旧天瀬町を回った。
はじめて行ったその日から、いっぺんに村のことも、村の人も好きになる。


古園という集落に行くと、毎年恒例のおひなめぐりというものをやっていて、家々の庭、路傍や玄関などにぽつんぽつんと、あるいは家のなかにずらりとならんでいるおひなさまたちに出会った。






なかでも目をひいたのがおきあげ雛というお雛様たち。裏は新聞紙で、竹の棒が台に刺してある。82歳になるおばあちゃんの初節句で揃えたものらしく、70年間箪笥にしまってあったのに虫食い一つもなくて素晴らしい出来。はじめてみたけれど、これには感動してしまった。表情豊かで心躍ってしまう。


御殿雛はその娘さんの初節句で揃えたもの。年代で雛様の様式が変わっていて面白い。

いままでおひなさまってそんなにありがたいものと思ったりとくべつ好きだなと思ったことなかったけれど、80過ぎるおばあちゃんも、50代くらいのその娘さんも、ああ、ちいさいころがあって、その誕生をさらに年上のお父さんやお母さんに祝われて、愛されて、そのことがうれしくて、80過ぎのばあちゃんのほほえみの向こうには少女の時代の記憶があって、おひなさまはその象徴であるような気がして、一体一体のおひなさまを見るにつけそれを熱っぽく見つめた小さなまなざしのことを感じてなんだかとてもとてもうれしい。

 一軒一軒飾り方も飾る場所も違って歩いて巡るの楽しかった。
みんなの家にあるもの持ち出してお金をかけない地域おこしを10年以上も続けている古園集落。
土日は公民館でばあちゃんの漬物カフェも開かれる。
「田舎のばあちゃんたちは漬けもの漬けても家では「もういらんばい」とか言われて喜んでもらえないけれど、よそから来た人はものすごく喜んでくれたり作り方を聞いたりする。おばあちゃんたちも褒められたり必要とされることがものすごく大事なのよ」と発起人のお母さんが言っていたのを聞く。

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愛子さんは雨の日にお邪魔したお家のおばあちゃんで、家に飾ってあった水仙がきれいですねと褒めると、「水仙が雨に叩かれてかわいそうだから摘んできたの」とかえってくる。少女のようなおばあちゃん。一緒に住んでいる息子たちのことを「せいちゃん、てっちゃん」と呼んでいる。わたしは帰ってくる息子さんを待つ間、愛子さんといっしょにミルク泡立ててコーヒーにのっけてみたり、ケーキをたべたり、むかし話を聞かせてもらった。

「わたし生まれたまんまでお嫁に来たの」
19歳で世間知らぬままとなりの町からお嫁に来た話や、優しいお舅さんにおそろいのワンピースと靴を買ってもらってうれしかった話を昨日のことのように、はじめて会った私に語りだすのだ。
実家のある日田市で毎年4月末にある観光祭という水のお祭りの時期になると、「よこおてきなさい(休んできなさい)」、「母ちゃん乳を飲んできなさい」とお舅さんに言ってもらい、田植え休みをもらって里に毎年帰してもらった。それが楽しみで、知らない土地でも頑張れたのよと。その時お祭りに持って行ったのがチマキとサンキラ団子。サンキラは柏の葉の代わりに使う柏餅のようなもの。「その祭りではね、花火が上がって、踊り子が踊って、屋形船がでるの」少女のようなお母ちゃんが目を細めてうれしそうに話す。

名前のあるものにはみな、ものがたりがあって、それを知ることはとてもすてきなことで、うれしくなる。

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週末は久々に実家に帰る。福岡と沖縄で買ってきた器に料理を盛る。日田で買ったオチアユのうるか(塩辛)を兄のバケットにつけて食べる。
畑で摘んできたふきのとうとセリをてんぷらにしてもらって食べる。
春の味はすこし苦くて、愛おしい。


2015年2月16日月曜日

夢見るユーカリ

散歩していたら、木蓮のつぼみがふっくらしていて、福岡はもうすぐ春が来そう。

足と手を動かせば歩いていけるように、鉛筆で形をなぞると絵が描ける。心もとない時には小さくても確かなことをしてみるとほっとする。
何も言わないものとじっと向き合うのは久しぶりで、心地よかった。


ユーカリは茎や葉の縁の赤がきれい。粉をふいたような硬質の葉の表面もなんだかおとぎ話みたい。


部屋においておいたら愛おしくて、一つでも植物があるとなんだかうれしい。

* * *

昨日行った山都町の図書館で、内山節さんの話を聞く。そのとき内山さんが口にしていた、共に生きる社会という言葉が全然嫌味でなく、びっくりするほど普通の言葉で、そのことになんだか感激してしまった。

共に生きる社会は共に生きる経済をつくることで成り立っていく。地域の労働体系を維持しデザインしていくこと。森林関連産業を基幹産業とする上野村の話は、アベノミクスとは真逆の、優しくしなやかで確かな話だった。わたしは大きなふとんをいっしょになって使っている人びとを思い浮かべる。




写真は最近行った東峰村と八代市。
雪の中で見た小石原の田圃は、その土地で作られている焼き物にある、飛び鉋という模様によく似ていた。

八代は一年前にもいったのだけれど、遠い遠い昔のことのよう。夜道、製紙工場の煙突から出るどうとうと出る煙を見ていたらなんだか笑ってしまった。





2015年1月23日金曜日

大きなふとん

不思議なもので、週の初めのころまでは、「海の上のピアニスト」のことを考えてばっかりで、おふとんから出たくない気持ちになっていたのに(わたしは88の鍵盤すら上手く使えないのに)、むりくり仕事で外へ出つづけていたら、大海原と思っていてもどこかで世界はつながっていて、そのちいさなつながりをひとつひとつ拾い集めていたら今までの自分を肯定できるような気がして、すてきな人やきれいな景色や美味しいものに出会ったら、やっぱり好きな人たちに口々に告げて回りたい気持ちになる。

このあいだ久々に仙台に行った。友達の家でお互いに愉気をしあったら、とてもとてもあたたかくて、心地よかった。一つしか布団がなかったので身を寄せ合って寝たのだけれど、やはり二人が寝るには少し布団は小さすぎて、なのでわたしは想像で、大きくて暖かい布団のことを思い浮かべたら、とても幸せで優しい気もちになった。

メディアテークの「記録と想起」展で見た瀬尾さんの絵には、震災でめちゃくちゃになってしまったはずの町を、そっと包み込む優しい優しい天使が描かれいて、それは本当にやさしい眼差しで町を見つめていて、なんだか夢のようでわたしはうっとりしてしまった。

山に囲まれた小さな村はとてもとても狭くて息苦しいものでもあるのだけれど、わたしにはそれが心地よくて、外に出ることがとても億劫で、変な野望でぎらついて外を見ている人がなんとなく苦手で、小さな村にお布団をかけて、みんなであったかくしていられたらいいのにって甘い夢を見る。
遠くのこと、たくさんのことを知りたいと思う一方で、ふと、近くの人やことをどんどんと取りこぼしながら生きているような気がしてとても怖くなる時がある。

世界が大きな布団に入るくらいの大きさで、優しいものばっかりしかなければいいのに。広がれば広がるほど、つながりを意識することがとても難しくなってしまって、だからいま持っているものを守ろう守ろうと意固地になっているのだけれど、でもだけど、いま持っているというのも幻想で、すべて放っておいても死なないし、生きているものだなとも思います。
狭い場所にいても、宇宙と繋がっている人はたくさんいて、それがいいなあと憧れる。

うきははとても良いところで、帰りみち、山の連なりに低い雲が影をまだらに落としていたのが綺麗で、海と山だったらなんだかわたしは山の方が安心してしまう。
海は、やっぱり少しこわいかもしれない。


向こう側は日田。

晴れた朝の、つんと鼻につく寒さの中で見た、耳納連山はそれはそれは本当にきれいだった。

2015年1月1日木曜日

あけまして、


新年明けました。

年賀用にようやく描いた絵が羊ではなくて宇宙に投げ出された毛玉になってしまいました。
浮遊しているのは仕事柄、でも何処かで手を出し顔を出し、いつか着陸する場所を見つけられるといいなあ。

年末年始、来し方行く末をのんびり考える時間を持てたのは久しぶりで、とてもありがたいことでした。光のある方へ少しずつでも進んでいけるよう精進します。

今年もどうぞよろしくお願いします。

2014年12月31日水曜日

としの終わりに

仕事も納まり、実家に帰って手帳と日記を見返しながらここ2年のことを振り返っていました。ものすごく長くて長くて、でもあっという間に過ぎた気もします。

大学を卒業してから、毎日たくさんの場所に行ってたくさんの人たち(主に農村で暮らすひとたち)に会い続けている。去年からそんな生活が始まって、いろいろなひとやものや風景に出くわすたびに世界はひろがり、その壮大さや複雑さ、日々いろいろな顔を見せる世界に触れてはその都度感嘆していたのだけれども、一方で、このひろがりつづける世界に対して、そのひとつひとつに自分がどう関わっているのか、どう関わったらいいのかが分からなくて、それに無力感やもどかしさを感じることもあって。
毎日入る情報をうまく飲み下せず、だけれども新しい場所や人へ会いに行く生活は続き、消化不良を起こしながらずるずると引きずられるようにして、とりあえずここにいるという感じ。

行った先の場所や人のことをふと思ったときに、なんだかそれは夢の中のお話だったかのように実感が持てず、わたしの今いる場所とつながっている気がしない。
経験が分断されていることと、それが知らぬ間に失われていってしまうことへの不安がぼんやりとありました。
人との関係もそうで、自分のいる場所やコミュニティが変わっていくことで、関われなくなってしまうひとたちがいるのはどうにもできないことなのかもしれないけれど、それをうまく受け止めることができなくて悶々としていた一年だったような気がします。

ある一定の根付く場所を持たず、自分の手を動かして地道に営むことができない生活であることにも由来しているのかもしれないけれど、でもそれはこの2年間に限ったことではなく、これまでの自分の学びのあり方自体が分断されたその場しのぎのものであったからなのかもしれないなと。
すべての経験をつなぎとめておくことは難しいと思うけれど、それをどう位置付けて、人にパスあるいは自分のものとして定着させるのか。または自分がうまく関われないことやひとを否定せず手ばなせるか。どこかではすべてすべてつながっていることだと思うので、ひとつづきの人として、関わることも関われないこともちゃんとしていきたいなというのが来年の抱負。

振り返ってみると今年は躓いてばかりの一年だったけれど、でもわたしにとってそれはとても大事なことだったと思うのでいまはそのいろいろに感謝。
来年はゆっくりとでも、日々の経験を言葉にしたり、自分のものとしてつなげていくことができたらいいなあ。



写真は今年みたいちばんの夕焼け。国東半島にて。

来年もきれいなものにたくさん出会えますように。

2014年11月9日日曜日

トリエンナーレとどくんご/イノシシおじさん、ゴディバの母ちゃん

昨日は中洲川端にあるあじびで福岡アジア美術トリエンナーレを見た後、須崎公園でやっているどくんごの公演を見に行った。


トリエンナーレは壮大。世界にはわたしの知らないたくさんの国や民族があって、そこには無数の人たちが生きて、生活している。数にしてしまえば個々の凹凸は捨象されてしまうけれど、一人ひとりの物語は宇宙規模で、ドラマチック、捉えがたい。
それらは作品にせずとも何気ない日常の中でもふと透けて見えたりするけれど、でも作品として提示されることで、その地へ一度も行ったことのないわたしでも少しだけ思いを馳せることができる。無数の宇宙の存在は、作品として目撃、知覚されるものもあれば、見られることのないまま埋もれていくものもたくさんあるわけで、わたしが毎日やっている仕事であっても同じことで、毎日会うことができた人だけ、その人の人生を少しだけ垣間見ることができる。一瞬通り過ぎるわたしは透明人間のような存在で、その土地で暮らしている彼や彼女に関わることはほとんどできないけれど、日々、わたしは彼らの言動に揺さぶられる。生身の人間に触れているのだという確かな手触りがあって、でもだからといってそれをどうすることもできないのだけれど。

先々週山奥で出会った、イノシシ好きの農家のおじさんは、イノシシを食べることも、飼うことも好きな人だった。
野山を荒らすイノシシを自衛の為に捕ってきては、すぐには殺さず、村の人たちからもらった古米や栗をやって飼育し、肥えさせて、自分で捌いて食べる。一時は40頭も飼っていたとか。イノシシというと「肉がくさくて食べられない」と言う人がいるけれど、おじさんが言うには、血抜き処理をしっかりすればくさみもない上等のお肉になるのだそう。村のお肉屋さんみたいな人で、イノシシのお肉を闇で売ってお金に替えることもあったそうだけれど、でもそれはお金を儲けたいという思いが最初にあったのではなく、まず自分が食べたいと思うからやっていることで、今でも毎日、奥さんに鹿やイノシシの肉をサイコロステーキのように焼いてもらって食べているんだとうれしそうに話してくれた。
そのおじさんが若いころ事故をして自分でご飯を食べることができなくなった時があったらしく、味噌汁とごはんを食べさせてもらうときに、ああ、もう一口、味噌汁飲みたいなと思うのだけれども、伝えられなくて、口にご飯が運ばれる。その時を振り返って自分が食べたいと思ったものが食べれない不自由は最悪だった、もう少し味噌汁飲みたいと思ったときに無理やりご飯を食べさせられるなんて酷い話だ、自分はもう年だけれどこの先動けなくなって寝たきりになるようようなことがあって自分の好きなものを自分の好きなタイミングで食べられなくなるくらいなら死んだ方がましだ、と迷いなく言い放っていて、わたしはなぜだかすごく感激してしまった。
肌のつやつやした、少し太っちょの、イノシシ飼いのおじさん。わたしが会ったときは黒いネットをかぶって、虫取り網を持っておじさんが飼っている日本ミツバチを襲うスズメバチ退治をしていたところだった。ハチミツを毎日ヨーグルトに入れて奥さんと一緒に食べるんだと言っていた。
イノシシも蜂蜜も美味しくて、自分が食べたいから飼う。そのために仕事をする。食べたいものを食べることができるから生きる。正しさとかは置いておいて、その単純さと力強さにやられてしまった。




ゴディバの母ちゃんは、「ミトリ豆という豆をつくったら美味しくて美味しくてわたしハマっちゃった」らしく、それをおこわにするとこれまたものすごくおいしいから今度食べにおいでと言ってくれたのだった。
後日訪ねて行くとおこわのおにぎりとお茶とお漬物とあさげの味噌汁を出してくれた。そしてパックにつめたミトリ豆のおこわをわたしに持たせてくれたのだけれど、そのときおこわを入れてくれた袋がゴディバの紙袋だった。わたしが「ゴディバとか食べるんですね」と聞くと、「それゴディバって読むの?わたし何て読むのかなと思っていたのよ」と。家にきれいな袋があったからそれに入れてくれたのだそう。ゴディバなんて知らなくても、出してくれる味噌汁があさげでも、ミトリ豆にはまった母ちゃんのおこわはたいそう美味しく、わたしはその母ちゃんもミトリ豆もすごく好きになった。




いつか、「あなた自身の毎日をドキュメントするだけで面白い作品になる」と言われた時があって、最初は意味が分からなかったけれど、今はよく分かる。どんな人にも広大な宇宙のような物語があるのだということ。




どくんごの芝居には全部があって、うれしくて、楽しくて、あたたかくて、さびしくて、悲しい。愛おしい。見るたび毎回やられてしまう。言葉を使っているけれど言葉ではないなと思う。




小さな花一つをとっても、どうしてそれを十分に理解することができただなんて言えるのだろうか。
毎日躓くことは、毎日に慣れていくことよりも至極まっとうなことであると思うのです。それでは社会が機能しなくなってしまうのだろうか。話すこと、聞くこと、食べること、歩くこと、伝えること、どれ一つをとってもわたしには分からないことばかりで、でも多分全部わかることなんてないのだと思うから、だからこそ謙虚でありたいなと思う。