2014年1月12日日曜日

買い物と憂鬱

買い物はとても好きです。

きょうは博多で一日中、街中をうろうろして、買い物をしたり、美術館に行ったりしました。

美容室に行ったら、いつも髪を切ってくれるお姉さんが、年賀状をくれてとてもうれしかった。鹿児島や愛媛を回ってきた話をしたら喜んでくれた。お姉さんはとても小さくて、いつも変なメガネをかけていて、髪も赤とか黄色とかカラフルで、かわいい。6人兄弟の、長女。お母さんも美容師さんだったらしい。お父さんが自衛隊の人で、転勤で北海道いったり、沖縄行ったり、九州中あちこち行っていた、なんて話を聞いた。童顔で、お酒を買いに行くとよく難くせをつけられると言っていた。博多に来てから知り合って間もないけれどなんだか好きな人。

美容室に行った後、福岡アジア美術館でスタジオジブリのレイアウト展というものがやっていたので見に行った。レイアウトはいろんな人の手によって書かれていたけれど、宮崎さんのものはこれだろうな、となんとなくわかった。迷いのない、正解を一瞬で引いてしまう力強い線を見ると、わたしにはできないことで、ただただ、圧倒された。

アジア美術館、近くをいつも通っていたのだけれど、初めて行って、いつも面白い企画をやっているようだった。常設展のところで中国の切り絵展をやっていて、見て、いっしゅんで、好きになった。たしか、チャン・イーモウの『初恋のきた道』でも切り絵が出てきた気がする。チャン・ツィーが本当にかわいかった。
アート、というのは特別なものではなくて、ふつうの人たちの生活から、湧き上がる祈りや願いだったりする。中国の黄土高原で暮らす彼らのその営みというのはわたしにはわからなくて、ただ夢想するしかないのだけれど、ちょきちょきと、ハサミで紙を切って美しい模様を描くひとびとのことを考えるのはとても素敵なことでした。そして、わたしにもアジアの血が流れているのかな、とかいろいろ考えて、どこから来たのか辿っていったら彼らとも遠くはない気がして、いつか行ってみたいとおもいました。



お昼は、美術館にあったベンチで、林田さんが持たせてくれたおにぎりを食べて、ゴボウ茶を飲みました。道行く人には変な目で見られたけれど、みんな外でごはん買って食べるより、おにぎり握って食べたらいいよというふうな感じでわたしは得意げにごはんを食べました。美味しかった。

それから、たんじょうびを迎えるひとや出産祝いの先輩へのプレゼントを買いに、天神へ。
驚くほどたくさんの人がいて、目が回った。
いろいろと買ったあと、美容室のお姉さんがD&DEPARTMENTの福岡店が祇園にできたと教えてくれたので行ってみた。ナガオカケンメイさんセレクトの品々がずらりと並んでいた。かっこよくて、選び抜かれたデザインのものたちばかりで、かえって、参ってしまった。
長靴を試着していたら店員のお姉さんに声をかけられて、冷え取りをしているんですか、と聞かれた。彼女も冷え取り中らしい。

買い物はすきで、たのしくはあるのだけれど、平日農村をまわっているわたしには、ものすごいいきおいで消費を煽り続ける街をめぐるのは結構つかれる。たくさんの若い人たちが(若い人たちだけではないけれど)こぞって集まって、物欲の限りをぶつけ合っているとおもうとなんだかやるせない。そのエネルギーもうちょっと有効につかえないのかなあとかおもった。

きょうの大きな買い物のひとつは炊飯器であって、ヨドバシカメラにもいったのだけれども、家電ってこんなにあるのか。寮生活だとほとんど家電とは縁遠いのでしらなかったけれども、こんなにもたくさん買わねばならないものがあるのか、いや、買わねばならないわけではないけれども、炊飯器ひとつえらぶのも大変で、お客さん一人一人にどうやって物を買ってもらおうかと奔走する店員さんたちを見ていたらなんだか具合が悪くなった。

ナガオカさんたちのコンセプトはとてもよく分かって、ロングライフデザイン、確かにいいことだとおもうし、どんどんと消費を煽るパルコとかヨドバシカメラとかそういうのとは一線を画している感じがあるとおもう。けれどもその選び抜かれた各地の品々を買うことができるのは都市生活者で、少しお金のある人たちで。わたしもそういううちのひとりになっているのだろうか。別にいいけど、なんか居心地が悪い。冷え取りにしても、じぶんをだいじにできるのはいいことだけれど、あまりにもだいじにしすぎて、モノに走りがちになっているじぶんがなんとなくいやで。とても面倒くさいのだけれども、この矛盾みたいなものは買い物のときいつも感じている。買い物に向かうときはいつもこころがうきうきするのだけれど、お金をたくさんつかっていろいろなものを抱え込んで帰る途ではすこしこころが重たくなっていたりする。ゴミを出さない生活は遠いなあ。
友達が、服部みれいさんの出す本や雑誌をよんでいるひとたちのことを「暮らしセレブ」と呼んでいて、なんだか笑っちゃったのだけれど、そのかんじ、すごくわかる。
エコでコンシャスな暮らしを素敵にしているじぶん、というのが好きで、そのためならお金を惜しまない。それって普通のブランド品が好きで自己顕示のために消費し続けるひとたちとそんなに違わないのではと。意地悪ないい方だなあとおもったけれど、でもじぶんもそういうところがあるので(だから特定の人を揶揄しているわけではなく、せんびきをする気もないのです)、ああ、だからわたしはなんでもつくれるようになりたいなあとおもう。

こうでなきゃだめ、というのはとても窮屈な話で、でも、なんでも選べる場所にいるじぶんは、わけもなく恵まれすぎている気がする。都市と農村の関係を考えるとやっぱりやるせない。潔癖であるひとなんていないのだけれども、でもこのもやもやする感じは消費しかできないじぶんに向かっているものなので、やっぱりすこしでも手を動かしてものをつくりたい。
清貧と同じように清富があるとどこかでみれいさんが言っていた気がするけれど、わたしにはまだそれっていうのがわからなくて、わたしにとって持ちすぎていることは居心地が悪いことです。ちょっとくらい見た目はみすぼらしくて、でも心が豊かな人になりたいなあと思うのは、持っている、贈与されていることの重みに耐えられないから。
大学で贈与論をかじったけれど、たぶん、贈与されているありがたいという気持ちがあるのと同時に、なんだかこんなに持ってしまってもうしわけない、ひとにくばらなきゃという気持ちがはたらくようで、いまわたしはありがたいことにたくさん物を持っているので、人に配って回りたい気持ちになる。そうではないときだってもちろんあって、自分がもらうことばっかり考えているときだってあるのだけれど。

寮に帰ってきてからは、コーヒーを飲みながら林田さんと一緒に大河ドラマを見ました。大河ドラマ見るのほんとうにひさびさだった。
さいきんはまいにちがしあわせで、うれしいのと同時に泣きたいような気持になります。
母親にはわたしが生き急いでいるように見えるらしく、わたしもこの感じがいつぷっつり切れてしまうのかとハラハラしています。
でも、おまじないのおかげなのかどうかわからないけれど、ここ何年かでじぶんがいい方向へと変わりつつあるような気がする。いい出会いが増えたし、人交わりも深いところでできるようになってきた。いままで閉じていたものが開きつつあるという感触。いろいろなものに感謝。

なんだか、きょうの日記はじぶんについてのはなしばかりでぐだぐだになってしまった。
鹿児島で、とても素敵な出会いをしてきたのであしたにでもそのことを書きたいとおもう。

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