2013年10月23日水曜日

春風のなか、ちいさな街

 3年前に、飯田茂実さんとe-dance仙台のみんなで「春風のなか、ちいさな街」という作品をつくりました。けいこ中の自分の言葉やみんなが書いた言葉たちをふと、見返して。

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ごめんなさい、ありがとう、

 どこかで誰かがさけんでいる、ないている、大声で笑っている、しあわせ、いとしい、かなしい、くやしい、さみしい
  たくさんの疲れた、たくさんの愛してる、たくさんのひとがひとが道に街にあふれ、こわがっている、うなっている、嘶きが聞こえる。でも、いなないているのはいつも自分で、隣の席の人がさけんでいても、ないていても、いつだって私はみかんの皮をむくことしかできない。電車の中から見たたくさんのマンション、ビル。あの中に一個一個家と人があることを思うとぞっとすることもある。

  生きているってだけで、自覚なく、たくさんの人やものたちを傷つけている。わたしが想像できることは狭くてちいさい。ぜんぜん追いついていない。
  いつもは平気で生きているけれど、小さな声を極力無視して自分の事だけ考えて、自分の事だけ考えて生きているけれど、たまに心がしん、とするときがあって、素直に感じられるときがあって、どうしようもなくたまらなくなって、ごめんなさい、と思う。いつも、ごめんなさい、と思う。ありがとう、とも思える。
  飯田さんは三つの言葉で足りると言っていた。
  ごめんなさい、ありがとう、I love you.(一個だけ英語なのはどうしてなのだろうね)
  少し恥ずかしいけれど、斜に構えずに、心から、思えるときがある。
私はとっても小さいけれど、やさしい人では無いけれど、でもごめんなさい、と素直に思えるときがある。奥底、私の静かな場所にある。好きです、大切にしたい、という気持ちをたまに自分の中に発見する。奇麗事のようだけど、いつもはがさがさと覆われて見えないけれど(いつでもそういうもので溢れている人もいるね)、みんな持っているのではないかしら。

  美しいと思う、共演者のことを美しいと思う。たくさんの人の美しいものが見える、見たい。それは和気藹々とした馴れ合いとかには見えなくて、ひとりぼっち、静かにひとりで膝を抱えて丸まっている人に見える。夜にひとりぼっちで泣いている。不器用で、孤独で、さみしい、そんな人の姿に嘘ではない、透き通ったきれいなものが見える。

  嘘ではなく、奇麗事ではなく、そんな舞台ってできるのだろうか、できたとして見た人はどう思うのだろうか。私にはまだ分からないし、確かなことも言えない。
  でも、今わたしに出来る舞台はこのかたちだ、と思う。ひとつひとつ大切に重ねていく営みが、今の私には必要なのだと思う。
  柄にも無いことを言ったりやったりしているかもしれない。
  いつも、わたしの小さい手からはたくさんの人や物や気持ちがぼろぼろとこぼれていく。すくい上げることができない、ケアすることができない。

  だから、舞台なのかな、と思う。
  だから、舞台で、たくさんのありがとうとごめんなさいとI love you.を言おうと思う。

  今週末から仙台の外へ行って来ます。
  これからもよろしくお願いします。
  ありがとうございました。

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