2013年10月20日日曜日

さいきん



先週から生姜地帯。
リチャード・ブローティガンの本を最近初めて読んだのだけれど面白かった。
『西瓜糖の日々』
西瓜と鱒を生活の基盤にしているあるコミュニティの話で、その世界は閉じられていて、外の世界は「忘れられた世界」しかない。不在感と静けさ。

日々、知らない土地を移動している私は、自分がいま見ている人々も西瓜糖の人々と変わらないようにも見える。
小さな集落で、わたしの知らない世界。物語の中の人々。
そんなことを空想しながら、生姜まみれの日々を送ってる今日この頃。(ちょうど西瓜糖の世界が食べ物も家もなんでも西瓜でできていたように、この地域の食べ物にはなんでも生姜が入っている。味噌汁、きんぴら、つくだ煮、ドレッシング。。。もちろんみんな食べ物だけだけれど)

でも何をつくっていても農家は農家で、家の前には小豆やらトウガラシやら、いろいろ干してあって、自分たちで食べる野菜を作って、味噌や漬物を漬けるのはどこも同じらしい。生活の基本。それをしなくなった農家もたくさんいるけれど、昔の日本の暮らしの原型を残している農家に会うと私はうれしくなる。





土日は阿蘇の草原で草泊りというものを作った。草泊りは昔車がなかった時代、牛や馬の牧草を刈りに出て帰るのに時間がかかるからと牧草地に泊り込めるように自分たちで作った簡易居住空間。竹を骨組みにして、牧草地に生えている背の高い萱やススキを敷き詰めて作る。
1960年代くらいまで阿蘇ではつくられていたそうで、ワークショップの講師となる農家のおじさんたちは小さいころお父さんたちと一緒に草泊りをつくって泊まりながら刈取り作業をしていたらしく。

何がすごいって、そこにあるものだけでなんとか一時的にではあれ、暮らせるようにしてしまう技術を皆が持っていたということ。おじさんたちの手際の良さったらなかった。紐ひとつ結ぶのでも素早く、きれいに、がっちり結べるのだもの。それを見ながら私は面白さもあったけれど無力感も覚えてしまった。いつも仕事をしながらも思うことだけれど、自由に動かせるのは口くらいのものだ。自分の手で自分が必要なものをつくり出すことができないのはもどかしい。





今の時代においてはモバイルハウスという思想自体がもてはやされたりするけれど、昔はモバイルハウスのようなものはあちこちにあって当たり前のように誰でも自分の住む場所を作ることができたんだろうなと思う。





先輩たちと一緒に参加して日中つくった草泊りに一泊。夜、街灯ひとつない牧草地の空はすごかった。寒さと感動がいっぺんにやってきて、自然は恐ろしく美しいものだと思った。流れ星が2度くらい見えた。

牛や馬が身近であった時代もそう遠い話ではなく。草泊りで農家のおじさんたちの話を聞きながら最近読んだ西村佳哲さんの『人の居場所をつくる』という本を思い出していた。遠野で馬を中心とした農業、生活を営んでいる田瀬さんのはなし。いろいろなものをリンクさせて楽しんでいるこの頃。

0 件のコメント:

コメントを投稿