2013年10月28日月曜日

先週

今日は日中お昼寝をしたので夜でも割とげんき。さいきんのあれこれを思い出しながら書いてみる。

さゆりさん
かなたさんにこの間知り合ったというさゆりさんを紹介してもらい、3人でベースキャンプというカレー屋さんに行った。さゆりさんは私の一つ上で、博多在住。書くことが好きで、仕事をしながら「手の間」という博多の小さな雑誌に記事を書いている。
博多に来てはじめて、職場の人以外と仲良くなった。まだ一度しか会っていないけれど、かなたさんとさゆりさん、わたしはずいぶん意気投合して、いろいろなことを話した。さゆりさんはわたしたちとはちがって一般の企業に勤めている人だけれど、「食糧戦争」という言葉を口にしていて驚いてしまった。これからどんな暮らしができるか、そんなことを考えながらあちこちにアンテナを張っているようす。福岡でやる西村さんのワンデイフォーラムにも行くと言っていた。
毎日人と出会っているけれど滅多に同年代のひととは出会えないので紹介してくれたかなたさんに感謝。


文章を書くこと
かなたさんもさゆりさんも書くことが好きで、仕事にしたいと言っていて、なんだかすごいなと思って聞いていた。じゃあわたしはどうなのかと聞かれ、 その時は、なんともあやふやなことを言ってしまったのだけれど、かなたさんにてるてはそこまで書くことが好きじゃないんじゃないのと言われて、それは違うと思ったけれど、でも何て答えたらいいのか自分でも言葉にできなかった。
そのあとも自分が文章を書くということについて考えてみたけれど、やっぱり何とも言えない。簡単に書くことが好き、とか得意、とは思わないけれど、むかしから、言葉にすることには興味があった。それが人に見せるためのものなのか、自分のためのものなのかはよく分からないのだけれど。ここでも、日記をウェブに書いてみたりしているけれど、誰に向けて書いているのかよく分からないで書いている。とりあえずは自分のためだけれど、人が見ているかもしれないと思うと少し緊張感があっていいのかなと思う。
ツイッターもフェイスブックもやっているけれど人に見せる、となると自意識が過剰なのだろうか、とてもとても恥ずかしくて、いろいろ考えた挙句、書けなくなることがよくある。詩とも日記ともつかないものを小さいころから書いていたけれど人には見せることができなかった。自分で後から読んでもやっぱり恥ずかしかった。
そういえば、研究室の先輩が卒論を書きながら言っていたという言葉で、すごく腑に落ちたものがあった。自分が見てきたものや人について書いてしまうことは怖い(だったか、苦しいだったか)ことだと。言葉ってやはり強い意味を持っているから、動いて息をしているものを断定して、固定させて殺してしまうようなこともしているんじゃないかと。すごく心を動かされたことを、そのまま伝えるのはとても難しくて。結局自分の力不足、ということなのかもしれないけれど。
とにかく、彼女たちのように書くことが好きで書く仕事がしたい、なんてとてもとても今のわたしには言うことはできそうにないけれど、でも残したい出会いや思いは書き留めて、人に伝えることができるようになりたいと思っている。やっぱり共有したいものはあるし、自分が思っていることを少しでもわかってほしいと思うからなんだろう。


オニババ化する女たち





三砂ちづるさんの本を誕生日にプレゼントしてもらって、最近ようやく読み終えた。これだけあけすけに性のことを語ってくれるひとって身近にいないんじゃないだろうか。
女の子の身体のこと。身体の知恵。月経、出産。いのちをつなぐこと。モノとしてではなく、生きものとして、自分の身体と向き合うこと。

題名がセンセーショナルで狙いすぎている感じがあんまり好きじゃないけれど(一時期評判になっていて本の存在知っていたけれどそれが嫌で読まなかった)、内容は、そうだよね、と納得して、改めてだいじなことはだいじと思えるものだった。
読んでいていいなあと思ったのが、卵子にも個性がある、子宮口にも心があるという話。せっかく排卵したのに毎月精子に出会えず流されていく卵子の気持ちやいつでも子どもを産めるように準備してくれているピンク色の子宮の気持ちを考えるというのは、自分という存在を思考や容姿に限定させてコントロールしようとするのではなく、頭だけでは理解できない他者、生きものを包むものとしていたわることだと思った。


わたしは身体の声に耳を澄ませるとき、自分の身体の中にいて、膝を抱えている少女を思い浮かべて、寒い時やさびしい時に抱きしめてあげる。誰の中にもそんな女の子がいて、小さくてあたたかなものを持っていると思うと、外に見える姿や言動がどうであれ、その人の命は歓迎できると思えるようになる。それは、自分や人に愉気をしているときに陥る命に触れている、という幸せな感覚に似ている。
愉気の話もそうだけれど、三砂さんの本読んでいて、何度も3年前にやった飯田さんのワークショップやクリエーションを思い出した。よいお産をした人たちが、本当に幸せで、何度でもその経験に戻っていきたいと語っていたというように、クリエーションはただ幸せというわけではなかったけれど、あの時の何かに触れた、という感覚は新しい命を産み落とすという一種のお産体験に近いものがあるのではないだろうか。お産をしたことがないからわからないけれど。
それから、言葉があふれ出す、という話もなんとなく分かって。そういえばと思って久々にあの頃書いた文章を読んでみて、何が書いてあるのかよく分からなくはあるのだけれど、つたないけれど、でも、気持ちがあふれてその時の言葉たちは踊っているように思えた。いつだって、そこに、その体験に戻っていけるような。

そして、触れ合えることを許しあえる人がいてくれる、ということはとても幸せなことでありがたいことだとあらためて。おかげで、わたしもたくさん変われている気がする。三砂さんが言うところの「受けとめられた」ということだろうか。もともと、わたしたちは受けとめられられている存在で、たくさんのものを贈与されている存在であるということ。


夜へ急ぐ人
三砂さんの本を読んだ後に、早川ユミさんの旅する種まきびと、内澤旬子さんの身体のいいなりを読んだ。なんだか、女性の書いた本を読むのおもしろくて。みんな全然違うことを書いてはいるのだけれど、どれもつながっているような、身体やこころについていろいろな目線で語っていて(どの本でも野口整体って出てきた気がする)。女性つながりで、内澤さんの本に東京事変の落日のことが書いてあって久々にわたしも聞いて、これもまた、飯田さんとやったクリエーションのことを思い出して、胸がきゅんきゅんとした。あの時間はなんだったんだろう。そのあとちあきなおみの歌を聴いて、「夜へ急ぐ人」が友川カズキが書いたうたであることを知った。


 土曜は鳥栖で読者の集い。行く道で進藤さんの冷え取りの本を編集したゴーストライターが遠藤さんだったことを聞いてびっくりした。興味のあるものには近づいていきたいという思いがあるならとくべつ意識していなくても近づいていく(くる)ものなのだと思った。ここのところ、特にそう思う。
だから、わたしは想うことをやめないし、人とつながっていきたいと思う。 読者の集いでは、私が多良木町で会って集いのことを紹介していた人が友達を連れて来てくれていて、なんだかうれしかった。

今日は、長野で出会った会社OBの先輩が送ってくれた紅玉を使って、かなたさんとアップルパイをつくった。宮脇さんにとても喜んでもらえてよかった。オーブンが使えると分かったので、これから寮でも少しずつつくることをしていきたいなと。


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