2014年2月24日月曜日

いのちの成り立ち



すべてのものの成り立ちを知りたい。
つくれるものは何でもつくれるようになりたい。

最近の願望。
小中高とならったのテキスト通りで全然暮らしと結びついていなかった、というより結びつけることができないままカタチだけ覚えることをしてしまった。
いまようやく歴史とか化学とか物理とかをじぶんが見ているものに近づくために知りたいって思えるようになりました。

川はどうしてできるのか。山がなければどうなるだろう。深くまで根を張った成木がない場所は土砂崩れが起きやすくなる。風の強い沖縄の山には高い木が生えない。

山と海は通じている。海が青いのは空が青いから。太陽が出てあたりを照らすから。砂が白いから。サンゴがいるから。山の影は雲が流れるから。

泥は、土は、何からできている?どうやってできたのか?クチャは中国大陸から流れてきた泥が堆積してできた粘土ってほんとう?ジャーガル、赤土、その土地にある土によってその土地に成るものが変わる。植物が変わる。生きものが変わる。食べものが変わる。暮らしが変わる。文化が変わる。信仰が変わる。

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写真は、琉球の創世神話で出てくる阿摩美久(アマミク)が天帝の命を受けて地上に降り立ち、稲を植えたとされている「受水走水(ウキンジュハインジュ)」という二つの泉。

沖縄は陽が出るともう初夏の陽気で、いのちがわさわさとひしめいています。

2014年2月21日金曜日

地を這う人

ナーバスなときっていうのはだいたいおんなじ周期でくるから、三砂ちづるさんの本に書いてあった話を思い出して、わたしの子供になれなかったいのちの欠片が泣いているのかな、そう思って腑に落ちた。別に違ってもいいけれど、そう思うとこの状態を自分が納得できるから。じぶんの中の他者を想う。

こんなときはほっと一息つける場所が必要。この間みずほさんが誰でも来られる公園のような場所をつくりたいと言っていたけれど、ほんとうに、そういう場所は必要で、わたしもどんな形でかは分からないけれど、ひとの居場所をつくる、ができたら。じぶんのこころが大変なときに優しくつつんでくれる場所。そんなことを考えていたらお家に帰りたくなってきた。雪が積もる埼玉。お母さんとお父さんとおにいちゃんと葉子ちゃんと弓隆とにゃーとにゃんこがいる家。

おいしいごはんが食べられる場所。あちこち行くたびそんな場所を探すのだけど、今回はなかなか見つからなくて。ひとりっきりで自炊宿なのでひさびさにご飯作っている。炊き込んだり、しりしり(沖縄では千切りにしたのそういうみたいだ)にしたのサラダにいれたり。このサラダにアーモンドと豆腐の味噌漬け散らしてお塩とオリーブオイルかけて食べるというのが最近のはやりです。
ブロッコリーとレタスを無農薬で野菜つくっているおじいにもらったのです、ブロッコリー茹でたのすごくおいしい。無農薬という言葉はやっぱり安心してしまうな、そうでないものが少しこわくなってきている。きょうも防除中のハウスに入ってしまって、マスクとかないし、どうしようってこわかったな。からだよりまず頭がそう思っているようだ。

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そういえば、ひとの日記に登場するのってこそばゆいけれどうれしい。
つるまきまりの日記、とても好きでたまにのぞいている。あけっぴろげで、奔放で、すき。手書きの日記、絵もすき。彼女の日記読んでてわたしも書こうと思ったのでした、わたしはばしっとかっこいいこと一発で書けないからぐだぐだ書けるワープロ。

ナーバスになるといろいろなことが気に障るらしく、宿の壁が薄いこととか、宿の店主の雰囲気がなんか妙に心地わるかったりとか、慣れない布団の匂いが洗剤臭くて鼻についたりとか。
びゅんびゅんと飛ぶ人たちをうらやましいと思たり。
でもいっこいっこに躓きながらぐだぐだと進むのもいいかなと思っている。つまづくことができる幸せ。とか言って、一生懸命ポジティブにかんがえてみる。

先週末、萌子と伊江島に行って、いろいろなものを見てきて、阿波根(あはごん)さんの言葉がつよくつよくのこっている。それについては、またこんど書くつもり。

2014年2月17日月曜日

琉球王国へ



ずだだだだだ

という音を聞いたときはじめどこかで道路工事をしている音かと思った。
そうじゃなくてすぐ近くで米軍が銃撃戦の練習をしているんだよ、あれは機関銃の音だよと農家が教えてくれた。

わたしがいた恩納村は沖縄の中でも有名な観光地であると同時に「戦争がまだ続いている」場所でもある。

沖縄に来るのは二回目で、初めて来たときは高校の修学旅行でだった。平和学習で太平洋戦争の記憶をたどってはいたけれど、基地についてはあまり触れていなかったように思う。

「ここではまだ戦争は終わっていないんだ」とわたしが恩納村で会ったマンゴー農家はそう言っていた。

まぶしい太陽と輝かしい海と空とその生活のすぐ隣に戦争は在る。
沖縄から東京の大学へ来た同期の子は、東京に来て戦闘機が飛ぶ姿や音がないのが不思議だったと言っていた。

標的の村のコメントで、映画監督のヤン・ヨンヒさんが、
「人々は癒しを求め沖縄を訪ねる。
でも本当に癒されるべきは、沖縄自身なのだ。」と言っていた。

でも、わたしにとって、琉球王国はあまりにも豊かだった。
三線を弾きながら歌を歌ってくれた宿のおかみさん、安里屋ゆんたの歌詞と調子。家の近くで取れたモーイの料理。オジサンという魚のあら汁。花。そのあたりに蒔いた種から実ったホウズキ、子どものためにと本を選ぶ大人たち。青い海と空。色鮮やかな見慣れない熱帯果樹と熱帯植物たち。
土が痩せていてキビしか育たない場所という人もいるけれど、わたしにとってみると彼らはあまりにも豊かで穏やかで、彼らが外に何も求めるものがなかったからこそ、外から力づくで求めてくる勢力に何度も何度も翻弄されてしまったのではないだろうかと、そんなことを考えた。

標的の村では、「オスプレイ」着陸帯建設に反対し座り込んだ東村(ひがしそん)・高江の人びとが描かれていたけれど、それを観てきた話を農家のおじさんにしたら、自分は以前恩納村にゲリラ演習場が来る話を聞いて、身体を張ってくいとめた。それで恩納村に演習場が来る話はなくなったけど、その後その話は高江に行ったのだと教えてくれた。
沖縄の勝利などなかったのだ。

***

国ってなんだろうなと思う。
沖縄に来てから、よく、「あんたは本土の人?」とか、「大和ンチュか?」、「ないちゃー(内地の人)か?」とよく聞かれる。そのたびにわたしのアイデンティティってなんだろうって思って、そして自分は自分が何人であるかということをあまり意識していないのだと気づく(それはいいことなのかわるいことなのかはわからない。それはわたしが「わたしたち」という帰属するものを持っていないで、「じぶんたち」の語るべき歴史を背負っていないということかもしれない)。
けれど沖縄の人たちの感覚は違って、沖縄の人か本土の人間かではっきりと線が引かれている。

薩摩藩が封じて、日本が無理やり併合して、戦後アメリカになって、まだ今もアメリカの基地や飛行場が残る沖縄。
線を引いてきたのは沖縄の人ではないだろうけれど、歴史が、基地の問題があるからこそ、「琉球国」は今もあるのだろうと思った。

恩納村で出会ったみさこさんに、サツマイモという名前は沖縄の人にとってみれば屈辱的なものなんだよと教えてもらって、何も知らずに、何気なく言葉をつかうことは恥ずかしいことだと思った。
さつま揚げもそうで、琉球から渡った食べ物が、薩摩の名前を冠して日本で知られていることへの憤りがある。いまでも鹿児島の人が嫌いだという人もいる。
彼らのそうした憤りに対して、何も知らなかった私は恥ずかしいと思う一方で、自分につながる歴史を持って生きているみさこさんの矜持のようなものは、わたしには無いものだとも思った。

驚いたのは、日の丸のはなし。
先月鹿児島県を回っていて、「日の丸の発祥地」ということがあちこちに書いてあってなんだろうと思っていたのだけれど、もともと日の丸は航海中の船が掲げる旗からきているらしいのだ。それを最初に掲げたのが鹿児島・薩摩である、ということを言いたかったようなのだけれど、沖縄に来たらそれは違うよと言われた。

もともと中国文化圏にあった琉球王国は、外国に行くときにムカデ旗と北斗七星の旗、日の丸を掲げるよう中国政府から命じられていて、それを彼らは忠実に守っていたのだそうで、その旗を見た薩摩の人がかっこいいデザインだと思ったからか、薩摩藩でも使い始めた。それがまた「日本の旗」として使用されるようになり、今に至っているのだそうだ。
日の丸を誇らしげに掲げる人たちのどれくらいがこの話を知っているかは分からないけれど、右翼は絶対にこのことを認めたくないだろうねとみさこさんは言っていた。

自分の身体のはじっこで何が起こっているのか知らないように、同じ国だと思っていた割にはわたしは日本列島の南にある沖縄で何が起こっているのか、何が起こってきたのかを知らなかった。
それは沖縄に限った話ではなくて。
今日父と電話していて、埼玉の実家では歴史的な大雪で鶏舎もハウスも潰れてしまって野菜が当分出荷できなくなったと聞いた。物流も止まってスーパーも品薄とのこと。
その話を聞いて震災を思い出したけれど、報道はオリンピックと都心の交通被害のことばかりで、地方や山奥で心細いおもいをしている人たちはどう思うんだろう。

沖縄に来てから琉球新報と本土の報道があまりにも違って驚いたけれど(琉球新報だと辺野古のことが毎日のように一面を飾っている)、それも同じようなことで、一緒の国に住んでいても都市とその周辺地域というのは分断されていて、それをじぶんのこととしてすみずみまで感じることは難しい。
父曰く、血流(モノとか金とか)は通っていても神経が通っていない。想像力が働かないのだ。
つま先や膝小僧から出血したり、内臓が病んで、助けてくれと言っているのに、頭は違う方向を向いていて、全く気付いていないような感じだろうか。身体全体がげんきであることがいちばんいいと思うのだけれども、どうにも偏ってしまっている。そんなことでは身体がもたないように、国だって長続きなどしないと思うのだけれど。

この仕事をしていると、あちこちに行くから、そこに住む人たちのことを知るたびに、わたしの国は拡張される。たぶん制度や歴史によって決められた国境というのはどうでもよくて、わたし自身がどこに線を引くか、どこまで感じられるかでわたしの国は都度形も大きさも変えるのだと思う。


2014年1月28日火曜日

七代先

「七代先のことを考えろ」というのは世界中、どこの民族でも言われている格言なのだそうだ。
と、世界各地の先住民の地を旅した人が教えてくれた。

今の社会にあるものはほとんどそんなことが考えられていなくて、確かに原発とか、化学兵器とか、農薬とか、人工的に一時的な欲を満たすためにつくられたものというのは、ほんとうにその場限りのもので、ほんとうに先がないものばかりだ。そんなものしかつくれないというのは、すごく貧しいことだろうなあとおもう。
考えてみたらわたしたちの身の回りにある仕事のほとんどは、その一時的なものをつくり出したり、それをサポートしたりする仕事ばかりじゃないだろうか。七世代先、とはいかなくても、もう少し未来のことを想像しながらやっている仕事があまりにも少ない気がする。

仕事というのは本来、そういうものであったのではないだろうか。祝島で見た平さんの棚田は、3代先の子供たちが食べるものに困らないようにと、膨大な時間をかけて、大きな石を一つ一つ積んでつくったものだった。日々の生活と七代先のことが地続きである仕事。
仕事=お金を得るためにすることと、その意味が矮小化されてしまったのはどうしてだろう。仕事も生活も目先のことだけ考えすぎたせいだろうか、あまりにも遠くて、どうにもならないような感じになっているのがやるせない。

先の人からは、今のスーパーで売っている野菜は、本物ではないから腐る前にとろけてしまうんだよと言われた。土だと思っているものや、野菜だと思っているものがそうではないとしたら、それを土だと思って、野菜だと思って一生懸命つくっているひとたちはどうなるのだろうと思って、悲しくなった。

お正月に、久々におじいちゃんやおばあちゃんと会って、彼らがいきてきた時代のはなしや、その前の時代の話を聞いて、じぶんのルーツをおもったときに、いのちというものはつながっていて、だからこそわたしがいまここにいられるのだと、すごくながいスケールでじぶんのいのちのことをおもうことができた。そして、これからじぶんのいのちが次のいのちにつながっていくのだから、それが直接的になるか間接的になるかはまだわからないけれど、七世代先のことを考える、という意味が少しだけ分かるような気がした。

もらいすぎているひと

「わたしちょんぼなのよ」と突然出会いがしらに50代くらいの女性に言われる。
彼女はどうやら自分が未婚であるということを言いたかったようで、でもそれをあっけらかんと言われたので、わたしは面食らってしまった。もうこの先こどもをつくることができないこと、とか、つれがいないこと、とか、そうであることの悲しさというのは多分ひとことでは言い尽くせないものだろうけれども、彼女はなぜだか明るくて、いろいろなものへの感謝を口にするのでわたしはちょっとわけが分からなかった。

年老いた父と母の世話をしながら、花と野菜と枇杷をつくっている。わたしは突然やってきて、話しかけただけの人で、彼女に何もあげたわけでないのに、これ持って行ってと彼女がつくっているユリを持たせてくれた。骨ばった特徴的な顔立ちの人で、わたしは青森出身の友人のことを思い出した。

彼女にかかると、じぶんはもらってばっかりいるそうで、それはモノとかお金とかではなく、旦那さんはもらえなかったけれど、ほんとうにいろいろな人に良くしてもらっていて、こうして農業ができるのも、みんなのおかげで、たくさんのものをもらっているから、わたしもあまり損得考えずなんでもひとにあげるのよと言っていた。ひとにあげると自分に返ってくるでしょうと。
あげすぎているからもらうのか、もらいすぎているからあげるのか、は分からないけれどとにかくわたしはユリをもらい、不思議な気持ちで彼女と別れたのでした。奇跡のような出会いが、まいにちあることに感謝します。もらいすぎているひとはわたしだ。

2014年1月27日月曜日

めぐるからだ

今月もまた、生理がめぐってきた。
月に一度、生理が来ることでわたしの身体はいろいろなバランスをたもっているようで、毎回生理の前は調子を崩すのだけれど、先週は熱っぽくて、妙にイライラして体調が悪かった。なんだかんだ言っても、まだわたしは自分の身体のことをよく知らなくて、自信がないから、体調を崩すとこころ弱くもなってしまう。パブロンを飲む?と先輩に言われてお断りしたのだけれど、確かにひとりで寝ていると自分の身体というものは頼りなく思えて、何かに頼りたい気持ちにもなる。でも毒を出し切った後の身体というのは軽やかで、わたしもこんなにしなやかないのちを持っていたのかとありがたいきもちになった。
身体に余裕がなくなると心にも余裕がなくなるから、卑屈になったり、ひとのことを悪く思う自分が顔を出して、でもそんな自分も嫌いになるのだからいいことはひとつもない。
こころも小さくなったり大きくなったりを繰り返している。熱が出きって、体にたまっていた毒が出ると、そういう症状を笑うこともできて、変化して、変わっていくじぶんのいのちを愛おしくおもう。

身体がどういう状態であるかでこころも変わるから、身体の状態次第でその日その日の出会いが変わるのだ。いい出会いができる日はいい身体である日で、ぐずぐずとしているときは、視野が狭くなってどうでもいいことに執着して、どうしても出会いをありがたくいかせなくなってしまうものだ。
まいにちまいにちを感動して生きることができるのは、まいにちまいにち自分の身体のことをだいじにできているからで、自分の身体を粗末にしないことは、自分の身に入れるものや身に着けるもの身の回りにあるものを大事にすることであるわけです。

2014年1月13日月曜日

桜島のふもと、宇宙人



鹿児島へやってきた。
いちねんくらい前にともだちと遊びにやってきて以来で、そのときはただあそびでまわっただけだったけれど、こんかいは仕事なので、この土地で土を耕す人たちとたくさん話す。

わたしが通っている場所は、大隅半島の西側、錦江湾に面していて、桜島のふもと。
常に煙を吐き続けるおおきな山を毎日みて育つというのはどういう感じなのだろうか。
地域で暮らす、というのはその土地のけしきが血肉化されて、その人をかたちづくっている。だからかわからないけれど、彼らは、わたしにはない情緒をもっているような気がする。桜島の情緒、だろうか。桜島だけではなくて、高隅山とか、近くには七岳とか、錦江湾に沈む夕日とか、ものすごく、自然がむき出しで、植生も違って、木がわさわさしていて、とにかく、わたしにとっては異国なのだ。

いつだって、ひとと出会う中で、たくさん感動させられるのだけれど、先週、すごくすごくうれしかった出会いがあった。

ひとつは、千秋ちゃんとの出会い。千秋ちゃんはわたしと同い年で、大学を出て、ひとりで農業をはじめた。野菜は露地で、無農薬で、季節のものをすこしずつつくって、学校給食に出したり、道の駅に出したり、個人販売をしたりして生計を立てている。
彼女は県立大の農学部に行っていて、皆が就活をしているときに「農活」をしていた。農業委員会にかけあって、借りられる土地をさがしていたのだそうだ。
父親や母親は勤めていて、休みの日は手伝ってくれると言っていたが、ほとんどの日はひとりで、畑を耕し、野菜をつくっている。笑顔がとても晴れやかで、気持ちのいい人だった。
同じ年だから、同じ女の子だから、想像するのだけれど、いちから農業をはじめるのは、もちろん簡単なことではなく、無農薬でやりたいという意志を貫くためにはずいぶんと苦労をしたはずで、でも千秋ちゃんが育てたブロッコリーはすごくきれいだったのだ。
そんなひとに出会えたのがほんとうにうれしくて、もう泣きそうだった。たくさん握手をして、友達になりました。

そして、千秋ちゃんは震災のときに、東北に行って手伝いができなかったことを悔やんでいて、いまでも何かしたいとおもっていると言っていた。東北で、農業をしている先輩たちが大変な思いをしているとおもうと、悲しくて、じぶんもなにか手伝いたいのだと言っていた。
先輩たち、という言い方。遠く離れていてもそういうつながり方があるんだと、土を触る人たち同士の連帯感というか、その確かなかんじがすごくいいなあとおもった。

その次の日に出会った人も、事故が起こってから、自分は福島の人みんな、東北の人みんな、鹿児島においでよと言ってあげたかったから、自分は市長にそう頼んだのだと言っていた。

距離的にこれだけ離れていても、ひとは思いを寄せることができて、その考え方が正しいとか間違っているとか言うつもりはなくて、おもってくれているということだけでわたしはとてもうれしくて、そのやさしさに、ただ勝手にありがとうとおもうのでした。

もう一つの出会いは、これも若い夫婦で、3年前に奥さんのおばあちゃんの家に移り住んで自然農法でお米やお野菜をつくっている山田さん。
行ったら子どもたちと一緒にそとで洗濯物を干していた。山田さん夫婦は二人とも東京や奄美大島で環境保全の仕事をしていたらしい。生き物に優しい暮らしがしたいと思って農業をはじめた。
「地域を変える、田畑を変える、農業を変える、食を変える、暮らしを変える」がモットーで、カエルをトレードマークにしている。カエルはふたりが生態系の調査などで追っかけていた対象で、家にはカエルグッズがたくさんあった。
ひきがえるを飼っていて、子どもたちがみせてくれた。



このカエルの話を聞いて、仙台で活動しているカエルノワというお母さんたちの団体を思い出してうれしくなった。

ふたりとも、バランス感覚が優れていて、自然農法にかぶれるわけでもなく、まっすぐにできる農のかたちをさがしていて、慣行農法をやっている人からやいのやいの言われることもあると言っていたが、自分たちのやり方をしっかり貫いていて格好良かった。
種取りもしていて、今度東京である古来種ファーマーズマーケット「冬の種市」に種や野菜を持っていくとのこと。大変なこともあるけれど、と言いながら、なんでも楽しそうにやっていて、家族がみんなひかりかがやいていてまぶしかった。

柳田さんとそのいとこの俣江さんやいろいろの知り合いを紹介してもらえたのもありがたいことでした。 柳田さんは最初会うなり、世界の成り立ちの話になった。人為と自然と。
ロスチャイルド家から坂本竜馬、安倍晋三に至るまですべてフリーメーソン、イルミナティに牛耳られているという話。
農薬も薬も添加物も石油製品で出来ていて、農業もこうした流れの中にあるんだよと。石油製品は人間が合成したものだから全くエネルギーがないのだけれど、このエネルギーがない農薬漬けの野菜や添加物まみれの食べ物をまいにち食べている若い人たちのことを本気で心配していた。
どこまで信じるかはあなた次第だけど、と言いながらいろいろな話をしてくれた。面白い人だった。子宮頸がんワクチンは使うな!とも言われた。

フリーメイソン、という言葉にしてしまうのには少し抵抗があるけれども、でもわたしは彼が言わんとするところがなんとなくわかる気がする。
コンビニの食べ物が信用できないのは悲しいことで、でも顔の見えない大きなものは信用するのが難しい。防腐剤っていったいなんなのか、なにでできているのかわたしはわからないけれど、腐らせないように食べ物は殺菌されていて、菌を殺すっていうことは、わたしたちのからだの中の菌も殺すわけで、それを気づかぬままからだに取り込むのをよしとしているこのしゃかいというのはやっぱり信用できない。コンビニのおにぎりが塩素で洗われていたり、ツヤツヤした見た目にするために光る粉をかけられていたとしてもそれを知らないでたべることができる。
どうしたって、いのちの世界を大事にしようとすればそんなことはできないとおもうのだけれども、お金の世界の論理は違って、今せかいはそのお金の論理で動いていて、そのためならなんでもするというひとたちが、戦争を起こさせたり、石油製品や電気や薬をたくさん使わせようとするのには、わたしたちが何も知らない方が都合がよくて、メディアだってお金で操作できるのだから、知ろうとしなければ彼らが思うとおりのことをするだろう。
ひとびとが元気でいるよりも、病気になって医療費を費やしたり、薬をたくさん使ってくれたりするほうが都合がいいから、たべものの世界はこんなになってしまった。

と、嘆いてもしかたなくて、柳田さん曰く、いまの若い人たちでも気づき始めている人がいると。頭の使っていなかった部分が動きはじめて、田舎へ向かう人が増えてきたと。
わたしは同世代のことを遠くからながめることができないので、そうなのかなーと聞いていたけれど、千秋ちゃんや山田さん夫婦のようなひとびとにはたまに出会うし、そこに明るいひかりのようなものを感じる。みくさのみたからを教えてくれた飯田さんがわたしてくれたもの、服部みれいさんの本があちこちにおいてあることとか、むかしは知らないけれど、扉はたくさん開かれているようにおもう。

とにかく、毎日からだを開いていると、ものすごい出会いがどどどと押し寄せてきて、ものすごいりょうの情報がからだにはいるので、大変なこともあるけれど、どうにかして定着させたくて、言葉にしている。
であるけれど、まだまだ間に合わなくて、でも大事にしたいとおもうのです。
ありがとうと、ごめんなさいと、あいしています。

ちなみに、鹿児島に来てから、宇宙人とUFOの話を聞くことが増えました。増えた、というか、いままでほとんど聞いたことなかったのに、まいにちのように出会う人がそんなはなしをするので、すっかり、わたしもそういう存在がいてもいいかなと思い始めています。