2014年4月5日土曜日

リュックを背負うと両手が空く


春の雨が降る博多で、今日は本を読んだり珈琲を飲んだり買い物をしたりしました。
あさの、すこし肌寒くて薄暗い部屋でお布団の中に入ってあれこれと考えながら少し泣いたのは、ただ単に眠かったからかもしれない。夢と日常の境目はいつもはかなくてとても愛おしい時間。色彩がなくて、乳白色とかグレーとかそんな色が似あうなあと思います。

文字はずっと前から書いていたけれど、大学で一人暮らしをしていたときにも書きつけていたけれど、こんなに自分に必要なものだとは思っていなかった。後から読むとものすごく陳腐な内容でも、自分が欲しい言葉や物語はけっこう自給できるものであると最近気がつきました。さすが、むかしから続いてきた営みである。文字がなくてもきっと唄があったのでしょう。

このごろよく想うのは、自分のなかに住む少女について。遠くにいる女友達や知り合いのなかにいる少女も勝手に想像する。わたしはそれを少女って呼ぶけれど、ひとによって違うようで、それをウニヒピリという人もいるし、神さまっていう人もいるし、天使という人もいる。
幼くてさびしがり屋の神さまで天使で少女。自分がどんなに不幸と思っても思われてもそのこのことだけにはやさしくする。
例えば飛行機の添乗員さんがなんだか苛々していて、それを見るわたしも少し苛々するのだけれど、そんな自分に気づいたとき彼女の中にいる少女のことを思い浮かべてみる。膝を抱えてさみしそうにしている少女の、その満たされなさに水でもあげたくなって、優しい気もちになったとき、そのとき同時にわたしの中にいる少女も少し潤った気がしました。
小さくて、幼い、それでいて純粋なその子のことは守れるのはわたししかいないから、でも、遠くにいる女友達の少女たちもしあわせでありますようにって思っています。彼女たちが無邪気に野原を駆けまわれるような世界になったらいいなって思います。(男の子の中にいる人は何て呼ぶのかな、わたしにはまだよく分からない)
川上未映子が書く少女はいつもひとりで分かち合えないものを大事に抱きしめて行き場をなくして立ち尽くしている。そっと手を当ててやると光が少しあたるようで、彼女が喜ぶとわたしもうれしい。おまじないや活元や愉気はわたしにとっては主にその子のためにある。

日々バイクで営業して回るなんてよっぽどマッチョな仕事だと思うのだけれど、冷たい雨でカッパ着て身体が冷えたときとか、もう自分なんてどうにでもなれという捨て鉢な気もちとその中にいる少女を守ってやらなきゃっていう優しい気もちがふたつある。両方ありだと思うけれどわたしは後者を大事にして、反マッチョ運動をしていこうと思います。今日の夜の飲み会でそんな話をしていたらみんなに笑われた。

今週は茨城にいたのでした。どのつく専業地帯、きつかったけれど、やっぱりわからないものはそこいらじゅうに転がっていて、面白がれたらいいなあと思う。
海外の実習生制度ってやっぱりなんだかぞわぞわします。違う文化と言葉を持った人を家の仕事に使うってどんな感じだろう。それこそ、おなじ生きものである人間として対応できる人とそうでない人がいる気がした。介護にも海外からの実習生を呼ぶと新聞に載っていました。
この、多国籍になること、じぶんの周りに違う国の人たちが増えることへの恐れはどこからくるんだろう。対等に理解しあうというのは同じ日本に住んでいても難しいのにそれがさらに難しくなりそうで怖いのかな。理解できないものへの恐れは簡単に暴力的なものになると思うから。

世界はよくわからないもので満ちていて、変わること・変わらされることを怖がるわたしはひとつひとつに毎回おののいているけれど、でもだから毎日がおもしろくて、なにか発見した時は、きっとこれはわたしがいちばんに見つけたものだと好きなひとにくちぐちに告げて回りたくなります。

買い物をして帰ってくるときは大荷物で、むかしの人が村を降りて、家族が必要なものであったり、ちょっとした晴れ着や子どもたちへのお土産を町に買いにいくのはこんな感じなのだろうかと思いました。薄給に見合わない買い物をするのも一興。蛍光ペンはインキカートリッジのやつで、ノートはLIFEという薄くて丁度いいサイズのやつで、シャンプーは頭皮やそのへんの生きものにもいいかんじのやつ、という一見どうでもいい買い物の変なこだわりは、そんなに窮屈なものではなく、わたしの身の回りにあって日々守ってくれるおまじないみたいなもの。

今日買ったもの
・文房具
・色鉛筆
・ノート
・本
・シャツ
・長袖
・インスタントコーヒー
・化粧水、乳液
・シャンプー、リンス
・地図帳
・リュックサック

髪は切らなかった、靴も買わなかった。

2014年3月29日土曜日

生きものであることをわすれない

「僕らはとても忘れっぽい」

森達也が『いのちの食べかた』でこう書いていたけれど、本当にそうで、だからこそ戦争は繰り返されるのだし、沖縄に基地は在り続けるのだし、原発は日本から、世界からなくならないのだろうと思う。


うりずんの沖縄は、きらきらと輝いていて、こんなに世界は美しいのに、最近のニュースを見ていると戦争はすぐそこだなと感じます。


自分自身が、あたたかい血の通った生きものであること
それぞれの痛みや喜びを想像すること


これをわたしたちは往々にして忘れている。戦争や基地や原発の問題というのは、誰かが悪いというのではなく、わたし自身にもその芽はある。人間のとても弱い部分。じぶんを大きく見せたいとか、ほかの人より優れていると認められたいとか、満たされない思いだとかがふくらんで、思念の塊になると誰かを排斥せずにはいられなくなるのだろうか。ネット上で人を叩きまくる、いわゆる「ネトウヨ」の人たちにリアルで出会ったことはないのだけれど、多分彼らはただのさびしがりだろうと想像する。満たされない思いのはけ口を煽動することは容易くて、それは、えた非人百姓武士の身分制度があったころから一部の人たちの思惑のために利用されてきたものであるのに。


国が違えば、文化も違うからうまくコミニュケーション取れないのは当たり前だ。隣にいる人とであっても理解しあうことは難しい。コミニュケーションが取れないと、じぶんのことを理解してもらえない苛立ちが募ると、「よく分からない」相手を「あいつはこうこうこういうやつだ」と自分と隔てたものとしてラベリングする。忘れっぽいわたしたちは、その人が自分と同じ、あたたかい血の通った生きものであることをすぐに忘れて、簡単に攻撃することができるようになる。


こういう感覚的な話っていうのがどこまで伝わるかは分からないのだけれど、先週末仙台に行って、久々に友人たちと会って、HaTiDORiのイベントをして、山田洋二の「学校」を見て、しみじみとそう思いました。


***


22日のHaTiDORiはほんとうに素敵な集いになりました。



ちひろさんが「毎回HaTiDORiに参加して感じることは 、皆さんほんと優しいなぁってこと。愛を感じる。それぞれ意見や環境は違うけど、だれかの為に行動するって大きな愛だと思う。毎回 私は愛の連鎖のようなものに感動している。」と書いていたのだけれど、わたしも本当にそう思う。


わたしたちはさっき書いたような弱さもあるけれど、こういう優しさもみんな持っているのだと思う。
子を想う母親や大人たちの純粋な愛情にやられました。
震災後の東北に生きるお母さんやお父さんたちは日常生活の中でどうやって子供たちを被ばくから守れるだろうと毎日闘っていて、彼ら彼女らを支えたいと支援する人たちも闘っていて、それはきれいごとではなくて先の見えない長くて苦しい闘いだろうと思うのです。spaceship 仙台ゆんたという小さな幼稚園を営みながら、ちいさなたびJapanという母子週末保養プロジェクトを続けている虹乃美稀子さんが、悲しい話をしたらきりがないけれど、でもそれを分かち合える人がいるだけで全然気持ちは違うのよ、と言っていて、わたしも遠くにいても、耳を澄まして寄り添っていきたいと思いました。

トークをしてくれたISEP環境エネルギー政策研究所・研究員で、エネシフみやぎのメンバーである浦井彰さんのお話で面白かったのが、「お母さんや女性というのは頭じゃなくて、本能的に動くことができるけれど、男性は経済とか、論理的な部分を大事にするからなかなかこうした運動で前に出てくる人が少ない」ということ。
男性・女性で区別するのは難しいけれど、確かに人によってそういう考え方の違いはあるだろうなと思う。原発が危ない、低線量被ばくが不安だ、子どもたちの代に負の遺産を残すのは止めようと本能的に思う人と、そういう感覚よりも、今どれくらいの電気を使っていて、どれくらい無駄があるのか、原発は使っていないけれど化石燃料燃やしてできるエネルギーはいつぐらいまで持つのか、代替エネルギーの実現可能性はどれくらいあるのかと具体的な話が分からないと賛成も反対も言えないという人と。どっちも大事な考え方で、浦井さんのように後者の疑問に答えてくれる人がいるのはありがたいことでした。


会場で、子どもたちが楽しそうに遊ぶ声を聞きながら、これからのこと、わたしたちは何ができるのかを考える。低線量被ばくからどう守れるだろう。自分の子どもがいてもいなくても、子どもはわたしたちの子どもで、みらいの種であるということ。忘れっぽいわたしたちは何度でも何度でも思い出さなきゃいけない。


今回のHaTiDORiは、わたしは遠いところからやって来たただの参加者という感じで、これまで仙台に住む学生だったときと目線が違っていた。その地にいなければ分からないことがきっとたくさんあるのだろうと、遠くにいるといろいろなこと忘れてしまっているものだと思った。
一年前の学生だったわたしにできたことと、日々、あちこちを駆けまわりながら仕事をしているいまのわたしにできることはもちろん違う。
じゃあどうしようか。仙台から沖縄に仕事をしに戻ってきて、すこしそのギャップにぼーっとしていたのだけれど、日々たくさんの人とコミュニケーションをとりながらたくさんの物語を知ること、それを自分の一部にしていくこと、自分の生活とつなげていくこと、人に伝えていくこと、選び取っていくこと、未来を描いていくことができたらいいなと思えて、これからの自分の仕事を考える良い機会になりました。


今回、HaTiDORi始まる前にちょこっとじぶんの近況報告会させてもらったのだけれど、大学時代の同級生が何人か来てくれてとてもうれしかった。元気そうでよかったです。ありがとうございました。お互い元気でまた会いましょう。


そして、今回一緒にHaTiDORiやろうって声かけてくれたみずほさんに感謝。離れているからほとんど準備とかできなかったけれど、あの場所で、みんなとひとときを共有できてすごく幸せでした。
1ミリ1ミリ世界を良くしていきたいって言ってくれたみずほさんの強さと優しさに涙。半端じゃない思いを感じました。
山田洋二の「学校」に出てくる人たちもみんな優しくて愛おしくて、見ながらぼろぼろ泣いてしまったけれど、フィクションじゃなく、愛って存在するなあと思うのでした。



2014年3月14日金曜日

お知らせふたつ

毎日いろいろな人に会って毎日いろいろなことを聞くけれど、それをしっかり書き留めて人に伝えることができないとどんどんとこぼれ落ちていくのではないかと不安や焦りや苛立ちなんかを覚えたりします。

とはいえ、これだけは。
お知らせふたつ。

■「 心〜ククル〜UAやんばるLIVE 」 映画会  (←リンクに飛びます)
2014年3月14日19:30〜
パタゴニア仙台にて

沖縄の北部、「やんばる」と呼ばれる自然豊かな山の奥・高江集落の隣で、アメリカ軍が戦争の演習をするため、オスプレイなどが離着陸する「ヘリパッド」の建設が進んでいます。
建設のためになくなってしまう森は何万平方メートルと言われています。やんばるの森には、地球上でここだけにしかいないヤンバルクイナやノグチゲラなど貴重な固有種が生息しているそうです。一部の人間のエゴのために、こうした生きものや、そこに住む人たちの暮らしが壊されてしまう。

やんばるの森を守りたい。その想いで仙台に住むwasanbonオーナー・ふみさんが、2007年10月31日、 やんばるの森に、300人のオーディエンスを集めたUAさんのライブを上映します。
RICE PAPER 88さんが、この日のライブをメインに、トークセッションやヘリパッド問題など詰め込んだ映像だそうです。

ぎりぎりになってしまいましたが、仙台で、興味のある方は、是非。上映会の売上は、沖縄・高江の「ヘリパッドいらない住民の会」さんへの寄付になるそうです。



HaTiDORi (←リンクに飛びます)



2014/3/22(土)14:00~19:00
(終了後、20:30まで交流会を予定)
場所:0 base(ゼロベース)仙台
入場料1500円(1ドリンク付)※予定
※イベント収益の一部は、週末母子保養プロジェクト「ちいさなたびJapan」に寄付します。

2011年3月11日に震災と原発事故があってから、日本のエネルギーの現状やこれからのことについて、自分の思いや言葉がなかなか近くの人に伝えられず悶々としていた時に、みんなで学びながら話し合える場をつくろうと工藤瑞穂さんと何回も重ねてきたこのイベント(ここにいきさつなどちょこっと書いています)。

今回のHaTiDORiは、鎌仲ひとみ監督・映画『小さき声のカノン-選択する人々』プレ上映会と、福島の子供たちの保養、除染活動、食べ物の放射能測定、自然エネルギー普及等に携わるゲストの方のトークを予定しています。

開始前の13時から、工藤瑞穂さんとわたしの近況報告会をします。みずほさんからは祝島レポートと、HaTiDORiの活動報告、わたしは今の仕事(全国津々浦々の農家を走り回る?仕事)をしながら出会った人やものやことについて話すつもりです。もしよろしければこちらも。久々の仙台なのでいろいろな人に会えるのを楽しみにしています。

入退場自由なのでちょっとでも時間がある方、ぜひのぞきに来てください。ゼロベースはせんだいメディアテークから歩いてすぐのところにあります。

***

今週はあちこちでキャベツやらほうれん草やらピーマンやらひらたけやら貰いました。自炊は楽しくて美味しいです。
毎日美味しいものを食べれてあたたかい布団に入って寝られることに感謝。



2014年2月24日月曜日

いのちの成り立ち



すべてのものの成り立ちを知りたい。
つくれるものは何でもつくれるようになりたい。

最近の願望。
小中高とならったのテキスト通りで全然暮らしと結びついていなかった、というより結びつけることができないままカタチだけ覚えることをしてしまった。
いまようやく歴史とか化学とか物理とかをじぶんが見ているものに近づくために知りたいって思えるようになりました。

川はどうしてできるのか。山がなければどうなるだろう。深くまで根を張った成木がない場所は土砂崩れが起きやすくなる。風の強い沖縄の山には高い木が生えない。

山と海は通じている。海が青いのは空が青いから。太陽が出てあたりを照らすから。砂が白いから。サンゴがいるから。山の影は雲が流れるから。

泥は、土は、何からできている?どうやってできたのか?クチャは中国大陸から流れてきた泥が堆積してできた粘土ってほんとう?ジャーガル、赤土、その土地にある土によってその土地に成るものが変わる。植物が変わる。生きものが変わる。食べものが変わる。暮らしが変わる。文化が変わる。信仰が変わる。

***

写真は、琉球の創世神話で出てくる阿摩美久(アマミク)が天帝の命を受けて地上に降り立ち、稲を植えたとされている「受水走水(ウキンジュハインジュ)」という二つの泉。

沖縄は陽が出るともう初夏の陽気で、いのちがわさわさとひしめいています。

2014年2月21日金曜日

地を這う人

ナーバスなときっていうのはだいたいおんなじ周期でくるから、三砂ちづるさんの本に書いてあった話を思い出して、わたしの子供になれなかったいのちの欠片が泣いているのかな、そう思って腑に落ちた。別に違ってもいいけれど、そう思うとこの状態を自分が納得できるから。じぶんの中の他者を想う。

こんなときはほっと一息つける場所が必要。この間みずほさんが誰でも来られる公園のような場所をつくりたいと言っていたけれど、ほんとうに、そういう場所は必要で、わたしもどんな形でかは分からないけれど、ひとの居場所をつくる、ができたら。じぶんのこころが大変なときに優しくつつんでくれる場所。そんなことを考えていたらお家に帰りたくなってきた。雪が積もる埼玉。お母さんとお父さんとおにいちゃんと葉子ちゃんと弓隆とにゃーとにゃんこがいる家。

おいしいごはんが食べられる場所。あちこち行くたびそんな場所を探すのだけど、今回はなかなか見つからなくて。ひとりっきりで自炊宿なのでひさびさにご飯作っている。炊き込んだり、しりしり(沖縄では千切りにしたのそういうみたいだ)にしたのサラダにいれたり。このサラダにアーモンドと豆腐の味噌漬け散らしてお塩とオリーブオイルかけて食べるというのが最近のはやりです。
ブロッコリーとレタスを無農薬で野菜つくっているおじいにもらったのです、ブロッコリー茹でたのすごくおいしい。無農薬という言葉はやっぱり安心してしまうな、そうでないものが少しこわくなってきている。きょうも防除中のハウスに入ってしまって、マスクとかないし、どうしようってこわかったな。からだよりまず頭がそう思っているようだ。

***

そういえば、ひとの日記に登場するのってこそばゆいけれどうれしい。
つるまきまりの日記、とても好きでたまにのぞいている。あけっぴろげで、奔放で、すき。手書きの日記、絵もすき。彼女の日記読んでてわたしも書こうと思ったのでした、わたしはばしっとかっこいいこと一発で書けないからぐだぐだ書けるワープロ。

ナーバスになるといろいろなことが気に障るらしく、宿の壁が薄いこととか、宿の店主の雰囲気がなんか妙に心地わるかったりとか、慣れない布団の匂いが洗剤臭くて鼻についたりとか。
びゅんびゅんと飛ぶ人たちをうらやましいと思たり。
でもいっこいっこに躓きながらぐだぐだと進むのもいいかなと思っている。つまづくことができる幸せ。とか言って、一生懸命ポジティブにかんがえてみる。

先週末、萌子と伊江島に行って、いろいろなものを見てきて、阿波根(あはごん)さんの言葉がつよくつよくのこっている。それについては、またこんど書くつもり。

2014年2月17日月曜日

琉球王国へ



ずだだだだだ

という音を聞いたときはじめどこかで道路工事をしている音かと思った。
そうじゃなくてすぐ近くで米軍が銃撃戦の練習をしているんだよ、あれは機関銃の音だよと農家が教えてくれた。

わたしがいた恩納村は沖縄の中でも有名な観光地であると同時に「戦争がまだ続いている」場所でもある。

沖縄に来るのは二回目で、初めて来たときは高校の修学旅行でだった。平和学習で太平洋戦争の記憶をたどってはいたけれど、基地についてはあまり触れていなかったように思う。

「ここではまだ戦争は終わっていないんだ」とわたしが恩納村で会ったマンゴー農家はそう言っていた。

まぶしい太陽と輝かしい海と空とその生活のすぐ隣に戦争は在る。
沖縄から東京の大学へ来た同期の子は、東京に来て戦闘機が飛ぶ姿や音がないのが不思議だったと言っていた。

標的の村のコメントで、映画監督のヤン・ヨンヒさんが、
「人々は癒しを求め沖縄を訪ねる。
でも本当に癒されるべきは、沖縄自身なのだ。」と言っていた。

でも、わたしにとって、琉球王国はあまりにも豊かだった。
三線を弾きながら歌を歌ってくれた宿のおかみさん、安里屋ゆんたの歌詞と調子。家の近くで取れたモーイの料理。オジサンという魚のあら汁。花。そのあたりに蒔いた種から実ったホウズキ、子どものためにと本を選ぶ大人たち。青い海と空。色鮮やかな見慣れない熱帯果樹と熱帯植物たち。
土が痩せていてキビしか育たない場所という人もいるけれど、わたしにとってみると彼らはあまりにも豊かで穏やかで、彼らが外に何も求めるものがなかったからこそ、外から力づくで求めてくる勢力に何度も何度も翻弄されてしまったのではないだろうかと、そんなことを考えた。

標的の村では、「オスプレイ」着陸帯建設に反対し座り込んだ東村(ひがしそん)・高江の人びとが描かれていたけれど、それを観てきた話を農家のおじさんにしたら、自分は以前恩納村にゲリラ演習場が来る話を聞いて、身体を張ってくいとめた。それで恩納村に演習場が来る話はなくなったけど、その後その話は高江に行ったのだと教えてくれた。
沖縄の勝利などなかったのだ。

***

国ってなんだろうなと思う。
沖縄に来てから、よく、「あんたは本土の人?」とか、「大和ンチュか?」、「ないちゃー(内地の人)か?」とよく聞かれる。そのたびにわたしのアイデンティティってなんだろうって思って、そして自分は自分が何人であるかということをあまり意識していないのだと気づく(それはいいことなのかわるいことなのかはわからない。それはわたしが「わたしたち」という帰属するものを持っていないで、「じぶんたち」の語るべき歴史を背負っていないということかもしれない)。
けれど沖縄の人たちの感覚は違って、沖縄の人か本土の人間かではっきりと線が引かれている。

薩摩藩が封じて、日本が無理やり併合して、戦後アメリカになって、まだ今もアメリカの基地や飛行場が残る沖縄。
線を引いてきたのは沖縄の人ではないだろうけれど、歴史が、基地の問題があるからこそ、「琉球国」は今もあるのだろうと思った。

恩納村で出会ったみさこさんに、サツマイモという名前は沖縄の人にとってみれば屈辱的なものなんだよと教えてもらって、何も知らずに、何気なく言葉をつかうことは恥ずかしいことだと思った。
さつま揚げもそうで、琉球から渡った食べ物が、薩摩の名前を冠して日本で知られていることへの憤りがある。いまでも鹿児島の人が嫌いだという人もいる。
彼らのそうした憤りに対して、何も知らなかった私は恥ずかしいと思う一方で、自分につながる歴史を持って生きているみさこさんの矜持のようなものは、わたしには無いものだとも思った。

驚いたのは、日の丸のはなし。
先月鹿児島県を回っていて、「日の丸の発祥地」ということがあちこちに書いてあってなんだろうと思っていたのだけれど、もともと日の丸は航海中の船が掲げる旗からきているらしいのだ。それを最初に掲げたのが鹿児島・薩摩である、ということを言いたかったようなのだけれど、沖縄に来たらそれは違うよと言われた。

もともと中国文化圏にあった琉球王国は、外国に行くときにムカデ旗と北斗七星の旗、日の丸を掲げるよう中国政府から命じられていて、それを彼らは忠実に守っていたのだそうで、その旗を見た薩摩の人がかっこいいデザインだと思ったからか、薩摩藩でも使い始めた。それがまた「日本の旗」として使用されるようになり、今に至っているのだそうだ。
日の丸を誇らしげに掲げる人たちのどれくらいがこの話を知っているかは分からないけれど、右翼は絶対にこのことを認めたくないだろうねとみさこさんは言っていた。

自分の身体のはじっこで何が起こっているのか知らないように、同じ国だと思っていた割にはわたしは日本列島の南にある沖縄で何が起こっているのか、何が起こってきたのかを知らなかった。
それは沖縄に限った話ではなくて。
今日父と電話していて、埼玉の実家では歴史的な大雪で鶏舎もハウスも潰れてしまって野菜が当分出荷できなくなったと聞いた。物流も止まってスーパーも品薄とのこと。
その話を聞いて震災を思い出したけれど、報道はオリンピックと都心の交通被害のことばかりで、地方や山奥で心細いおもいをしている人たちはどう思うんだろう。

沖縄に来てから琉球新報と本土の報道があまりにも違って驚いたけれど(琉球新報だと辺野古のことが毎日のように一面を飾っている)、それも同じようなことで、一緒の国に住んでいても都市とその周辺地域というのは分断されていて、それをじぶんのこととしてすみずみまで感じることは難しい。
父曰く、血流(モノとか金とか)は通っていても神経が通っていない。想像力が働かないのだ。
つま先や膝小僧から出血したり、内臓が病んで、助けてくれと言っているのに、頭は違う方向を向いていて、全く気付いていないような感じだろうか。身体全体がげんきであることがいちばんいいと思うのだけれども、どうにも偏ってしまっている。そんなことでは身体がもたないように、国だって長続きなどしないと思うのだけれど。

この仕事をしていると、あちこちに行くから、そこに住む人たちのことを知るたびに、わたしの国は拡張される。たぶん制度や歴史によって決められた国境というのはどうでもよくて、わたし自身がどこに線を引くか、どこまで感じられるかでわたしの国は都度形も大きさも変えるのだと思う。


2014年1月28日火曜日

七代先

「七代先のことを考えろ」というのは世界中、どこの民族でも言われている格言なのだそうだ。
と、世界各地の先住民の地を旅した人が教えてくれた。

今の社会にあるものはほとんどそんなことが考えられていなくて、確かに原発とか、化学兵器とか、農薬とか、人工的に一時的な欲を満たすためにつくられたものというのは、ほんとうにその場限りのもので、ほんとうに先がないものばかりだ。そんなものしかつくれないというのは、すごく貧しいことだろうなあとおもう。
考えてみたらわたしたちの身の回りにある仕事のほとんどは、その一時的なものをつくり出したり、それをサポートしたりする仕事ばかりじゃないだろうか。七世代先、とはいかなくても、もう少し未来のことを想像しながらやっている仕事があまりにも少ない気がする。

仕事というのは本来、そういうものであったのではないだろうか。祝島で見た平さんの棚田は、3代先の子供たちが食べるものに困らないようにと、膨大な時間をかけて、大きな石を一つ一つ積んでつくったものだった。日々の生活と七代先のことが地続きである仕事。
仕事=お金を得るためにすることと、その意味が矮小化されてしまったのはどうしてだろう。仕事も生活も目先のことだけ考えすぎたせいだろうか、あまりにも遠くて、どうにもならないような感じになっているのがやるせない。

先の人からは、今のスーパーで売っている野菜は、本物ではないから腐る前にとろけてしまうんだよと言われた。土だと思っているものや、野菜だと思っているものがそうではないとしたら、それを土だと思って、野菜だと思って一生懸命つくっているひとたちはどうなるのだろうと思って、悲しくなった。

お正月に、久々におじいちゃんやおばあちゃんと会って、彼らがいきてきた時代のはなしや、その前の時代の話を聞いて、じぶんのルーツをおもったときに、いのちというものはつながっていて、だからこそわたしがいまここにいられるのだと、すごくながいスケールでじぶんのいのちのことをおもうことができた。そして、これからじぶんのいのちが次のいのちにつながっていくのだから、それが直接的になるか間接的になるかはまだわからないけれど、七世代先のことを考える、という意味が少しだけ分かるような気がした。