2015年10月17日土曜日

生活の柄

9月。
雨の日の国会議事堂前はいろんなにおいがした。

イチョウの樹から落ちた銀杏と少し金木犀のにおい、近くの排水溝からどぶ臭いにおい、汗、雨や香水の混じった体臭のにおい。


百聞は一見にしかずで、机の前で考えているよりも、行って、自分の目で見て感じるのがいちばんいい。

いろいろな年代の、さまざまの立場の、考え方の、個人がそこに立って、声をあげていたり、いなかったり。プラカードを掲げていたりいなかったり。


わたしがどきどきしながら声を出すと、裏返ったような、ひどく情けないような声で、弱くて何の力もない、はだかんぼうの自分に向き合わなくてはいけなくて、正直少しつらかった。

でもそんなはだかんぼうの人たちが、じりじりとした思いを持って集まって声をあの場所で出しているということに意味があるように思えて。それぞれの行動自体は大きな権力の前では本当に小さいものだけれど、でもそんな個人が集まることで国会の中で行われていることに確かに影響をあたえていた。

 向こう側には、ずらりと並んで人々を規制する警察の人たちが立っていた。


彼らにもきっとひとりひとりに家族があって、大切なものがあって、個性があるのだろうけれど、制服を着て並んでいる彼らを見ると、もう国家権力の一記号にしか見えないことが悲しかった。

 そんな光景を見ながら、去年の3月に、沖縄の高江村でヘリパッド工事反対の座り込みをした雨の夜を思い出した。人の数は全然違って、高江では座り込みが長期間にわたって毎日交代交代で行われていたのだけれど、安保法案も、沖縄で今行われていることも、わたしの中ではつながっている。


わたしたちのたたかいは、毎日の生活の中にあって、というか生活がたたかいなので

SEALDsの奥田くんが中央公聴会で言っていた日常についての話にも重なるのだけれど。

それは眉間にしわを寄せて誰かを糾弾し続けるのとは少し違って、わたしはありがとうごめんなさい愛していますを唱えながら、寝て起きてごはんをつくって食べて掃除して洗たくして仕事して人と会って生きていたいので

身近にいる人には会って笑顔で話すことができる、触れることができる。遠くにいる人たちのことは知ることで想像することができる。思いを飛ばしてわたしができることを考えてみる。いろいろなことはもうつながってしまっている。

国会前で「明日からは三菱重工の製品は鉛筆いっぽんたりとも買わない」と言ったおじさんに拍手と歓声が起きたけれど(調べてみると三菱重工と三菱鉛筆はほとんど関係がないらしく、ここの発言が的を得ているとは言いがたいのだけれど)、毎日の生活の中でわたしが何をするのかというのは、安保法案の裏側には何があって、誰が無理やりにでもその法案を通したいのかを知って、例えばエアコンを一台買うときに、外でお茶を飲むときに、何を基準に考えて選ぶのかということなのだと思う。

いまのわたしはお百姓さんのようにみんなが食べるものを作り出したり、大工さんのように雨風をしのげる家を建てたりすることはできないから、せめてせめて、顔の見える人から食材を買って自分の手でもって料理したものを食べること。
個人でやっているお店でものを買ったりご飯を食べたりお茶を飲んだりする。
アマゾンではなく本屋さんで本を買ったり、出会った人にはできるだけ気持ちよく過ごしてもらえるようにしたり、新聞や本を読んで今起きていることを知ること、物事をよく知っている人たちに会いに行ってそれを人に伝えること、小さくてもできることを続けていくことだけが、忘れっぽいわたしにできることで、それを身体いっぱいにやるしかないと思う。

それは、力のないわたしが少しずつでも外に頼りきってあずけていたものを取り戻すことで、それは、窮屈で苦しいことではなくて、多分、喜びや楽しみに近いものでもあるのだと想像する。

今回の安保反対のさまざまな動きの中で、若い人たちが声をあげて、気持ちのいい風を吹かせてくれたことにたくさんの人が希望を見たし、わたしもとてもうれしかった。

けれどわたしは、原発事故がおきた後の反対運動の盛り上がりと今の状況を見ると、やっぱり人は忘れやすいのだと思うから(自戒を込めて)、だから、わたしは毎日、生活の中で何をするのかを一々問い続けていくのだと思う。

大学時代にやった演劇の舞台が終わった後、おはなしの時間に、何故かわたしは「生活」という言葉を口にした。それを客席で聞いていた知人が「大野一雄もやっぱり『生活』と言っていたんだよ」と教えてくれたことがあった。

舞台がそうであるように、生活は全て、否応なく、誰も彼もが生きて行うことに通じている。


好きな人たちと食べるご飯と味噌汁はなんでこんなに美味しいのだろう。

目に見えない大きなもののためでもなく、すばらしく立派な思想のためでもなく、生活の中で、生活を失わないために、顔がわかる人たちやわたしの想像が及ぶところで生きている人やものたちを大事にするために、生活をすることでわたしはたたかおうと思う。

わたしのいうたたかいは自分やひとを傷つけないために生活のなかで心をくだくことで、
なぜなら戦争というのは毎日の生活のなかで進められていくものだからで、それだから、自分をひとを大事にしながら生きようとしたときには毎日の生活のなかでちまちまとしたたたかいを展開するしかない