2015年12月3日木曜日

オイラ イノ吉

 
父母の菜園たよりから。10月のものになりますが、おもしろかったので。
田舎はどこも鳥獣害でたいへんです。
 

ケモノたちは「害」獣でもありながら、畏れ敬う存在でもあるのだなと思います。

白戸三平さんの「カムイ伝」(江戸時代が舞台の漫画)でも、主人公が山の中で大イノシシと対峙するシーンがありましたが、 自然の塊とでもいうのかな、たぶんこういった動物たちはわたしたちのなかにもある太古の、原始のケモノとしての生き物の部分にぼっと火をつけるようなところがあるのではないかと想像しています。
 
わたしも実家に帰った時に一度、このイノ吉よりもう少し小さなイノシシに逢ったことがあります。
罠にはまったあとも、必死に、生きようともがいて、怒り狂っている、篠藪を揺らす姿を見たら、なんだか頬が熱くなってきて、でも同時に、その場に立ちすくむしかない自分がものすごくちっぽけな存在に思えたのを覚えています。
 
いま農村では、農家の人たちが死活問題としてこうしたケモノたちと対峙しているわけで。
そこで採れたものを食べているわたしにも遠い話ではないのだと、食べ物から自然に思いを巡らせてみます。

2015年10月17日土曜日

生活の柄

9月。
雨の日の国会議事堂前はいろんなにおいがした。

イチョウの樹から落ちた銀杏と少し金木犀のにおい、近くの排水溝からどぶ臭いにおい、汗、雨や香水の混じった体臭のにおい。


百聞は一見にしかずで、机の前で考えているよりも、行って、自分の目で見て感じるのがいちばんいい。

いろいろな年代の、さまざまの立場の、考え方の、個人がそこに立って、声をあげていたり、いなかったり。プラカードを掲げていたりいなかったり。


わたしがどきどきしながら声を出すと、裏返ったような、ひどく情けないような声で、弱くて何の力もない、はだかんぼうの自分に向き合わなくてはいけなくて、正直少しつらかった。

でもそんなはだかんぼうの人たちが、じりじりとした思いを持って集まって声をあの場所で出しているということに意味があるように思えて。それぞれの行動自体は大きな権力の前では本当に小さいものだけれど、でもそんな個人が集まることで国会の中で行われていることに確かに影響をあたえていた。

 向こう側には、ずらりと並んで人々を規制する警察の人たちが立っていた。


彼らにもきっとひとりひとりに家族があって、大切なものがあって、個性があるのだろうけれど、制服を着て並んでいる彼らを見ると、もう国家権力の一記号にしか見えないことが悲しかった。

 そんな光景を見ながら、去年の3月に、沖縄の高江村でヘリパッド工事反対の座り込みをした雨の夜を思い出した。人の数は全然違って、高江では座り込みが長期間にわたって毎日交代交代で行われていたのだけれど、安保法案も、沖縄で今行われていることも、わたしの中ではつながっている。


わたしたちのたたかいは、毎日の生活の中にあって、というか生活がたたかいなので

SEALDsの奥田くんが中央公聴会で言っていた日常についての話にも重なるのだけれど。

それは眉間にしわを寄せて誰かを糾弾し続けるのとは少し違って、わたしはありがとうごめんなさい愛していますを唱えながら、寝て起きてごはんをつくって食べて掃除して洗たくして仕事して人と会って生きていたいので

身近にいる人には会って笑顔で話すことができる、触れることができる。遠くにいる人たちのことは知ることで想像することができる。思いを飛ばしてわたしができることを考えてみる。いろいろなことはもうつながってしまっている。

国会前で「明日からは三菱重工の製品は鉛筆いっぽんたりとも買わない」と言ったおじさんに拍手と歓声が起きたけれど(調べてみると三菱重工と三菱鉛筆はほとんど関係がないらしく、ここの発言が的を得ているとは言いがたいのだけれど)、毎日の生活の中でわたしが何をするのかというのは、安保法案の裏側には何があって、誰が無理やりにでもその法案を通したいのかを知って、例えばエアコンを一台買うときに、外でお茶を飲むときに、何を基準に考えて選ぶのかということなのだと思う。

いまのわたしはお百姓さんのようにみんなが食べるものを作り出したり、大工さんのように雨風をしのげる家を建てたりすることはできないから、せめてせめて、顔の見える人から食材を買って自分の手でもって料理したものを食べること。
個人でやっているお店でものを買ったりご飯を食べたりお茶を飲んだりする。
アマゾンではなく本屋さんで本を買ったり、出会った人にはできるだけ気持ちよく過ごしてもらえるようにしたり、新聞や本を読んで今起きていることを知ること、物事をよく知っている人たちに会いに行ってそれを人に伝えること、小さくてもできることを続けていくことだけが、忘れっぽいわたしにできることで、それを身体いっぱいにやるしかないと思う。

それは、力のないわたしが少しずつでも外に頼りきってあずけていたものを取り戻すことで、それは、窮屈で苦しいことではなくて、多分、喜びや楽しみに近いものでもあるのだと想像する。

今回の安保反対のさまざまな動きの中で、若い人たちが声をあげて、気持ちのいい風を吹かせてくれたことにたくさんの人が希望を見たし、わたしもとてもうれしかった。

けれどわたしは、原発事故がおきた後の反対運動の盛り上がりと今の状況を見ると、やっぱり人は忘れやすいのだと思うから(自戒を込めて)、だから、わたしは毎日、生活の中で何をするのかを一々問い続けていくのだと思う。

大学時代にやった演劇の舞台が終わった後、おはなしの時間に、何故かわたしは「生活」という言葉を口にした。それを客席で聞いていた知人が「大野一雄もやっぱり『生活』と言っていたんだよ」と教えてくれたことがあった。

舞台がそうであるように、生活は全て、否応なく、誰も彼もが生きて行うことに通じている。


好きな人たちと食べるご飯と味噌汁はなんでこんなに美味しいのだろう。

目に見えない大きなもののためでもなく、すばらしく立派な思想のためでもなく、生活の中で、生活を失わないために、顔がわかる人たちやわたしの想像が及ぶところで生きている人やものたちを大事にするために、生活をすることでわたしはたたかおうと思う。

わたしのいうたたかいは自分やひとを傷つけないために生活のなかで心をくだくことで、
なぜなら戦争というのは毎日の生活のなかで進められていくものだからで、それだから、自分をひとを大事にしながら生きようとしたときには毎日の生活のなかでちまちまとしたたたかいを展開するしかない

2015年8月15日土曜日

百姓と戦争

戦争が終わって70年

この国には また戦争を始めたい人たちがいる
それは お金のため プライドのため アメリカやさまざまの関係のため
わたしには少し 理解しがたいことだけれど
人の命や生活を守ろうとしてやっているのではない ことだけはわかる

わたしの実家は百姓で
野菜をたくさんつくっている
休みに帰ると
この夏の暑さと日照りと草とのたたかいで 父も母も やられっちまって
地面に這いつくばりながら 砂埃にまみれながら
なんとか生きているという有り様

野菜たちはそれでも美しく美味しく
こんな暑さの中でも 実をつけて
キュウリはみずみずしく トマトは酸味を持ち 塩をかけるだけでいける
ナスは黒光り 終わりかけの茗荷は花をつけて
野菜たちは命をつなぐ糧として 食卓に並ぶ

わたしはスーパーで売られている製品を見ても
その裏にある悲喜こもごもの物語を知らない
よその国の誰かが泣きながらつくっているものかも知れない
スーパーで命のやり取りを感じることはなかなかに難しい

畑のなかには生き死にがあって
育てている野菜だけでなくて
虫カエル蛇鳥けものたち 雑草やらきのこやら
みんな必死に生きるため 日々 格闘 していて
百姓も 一緒になって格闘しながら
わたしたちが食べるものを取り出すために ある種の搾取もしている

汗水垂らして産み出されるものが 
効率的であるとか 経済的であるとか
そういう物差しで測ること自体 あまり意味のないことだと思えて
泥にまみれながら 毎日の天気に一喜一憂しながら 
昨日は恵みの雨が降った
と安堵する
このか細くて確かな健全さを わたしは信じている


2015年8月13日木曜日

ダンスを



7月から職種が変わる。

営業から編集へ。本の内容を話して伝える仕事から、ものを書いて伝える仕事に。
どんなことができるか。どんなことをしたいか。

仙台に久々に行ったこともあって、そもそも、どうしてこの仕事をしたいと考えていたのかを思い出していた。

***

人に何かを伝えることに対して少なからぬ情熱を燃やすようになったのは、いろいろあるけれど、いちばんには2011年の震災があったと思う。

あのころわたしは仙台にいて、震災を機に顕れ出たいろいろな矛盾―とつぜん幕が落とされて、それまで知らなかったこと(知ろうとしていなかったこと)を無理やり見せられた感じ―に対して、何らかの、わたしなりの答えを出さなきゃいけないような気持ちになって、毎日必死にもがいていた。
津波の被害と原発事故はすこし色合いが違って、「自然災害」と「人災」の違いなのか、それぞれをどう口にすべきか今でもまだよくわからないのだけれど、わたしがこれからどんな人生を選ぶのか、何を志向して生きていくかを考える時に、原発とかエネルギー、それを成り立たせる世界の仕組みみたいなものについて、知ろうとする必要があると思ったし、わたしはそれに対して自分の態度を何らかの形で表明していくべきだと思った。

震災後の仙台は不思議な雰囲気で、言葉を失うようなことが起こった後は、みなそのあとに溢れ出てくる言葉をどこへ投げたらいいのか分からなくなっていたような、行き場のない思いやことばがそこらじゅうに飽和していた。

そんなときに、わたしはわかめの会(三陸・宮城の海を放射能から守る仙台の会)の人たちに出会う。
福島の原発事故が起こる前から、放射能や原発についての学習会や上映会を自主的に開いていた市民活動グループ。
別にその活動を通してお金がもらえるわけでも世間から評価されるわけでもないけれど、彼らは自分の必要性にかられて集まって勉強したり話し合ったりしていた。

そういう人たちが仙台にいたということが素直にうれしくて、わたしもその活動に混ぜてもらうことにした。彼らのおかげでいろいろな情報につながりやすくなったけれど、一方で、わたしが通う大学や部活動の仲間には同じ言葉が伝わらなかったし、伝えることができなかった。
伝える努力をしていなかったということもあると思うけれど。

『声の届き方』という映像を撮ったのは震災から1年くらい経ったあとだろうか。
原発反対を訴えるデモと、そのデモに参加する人へのインタビュー、デモに参加する人に対して街の人たちがどう感じているかの街頭インタビューをまとめたもの。
その映像をつくることになったきっかけはいろいろあるけれど、いちばんは、デモに参加して感じた強烈な伝わらなさだった。
わたしはデモに参加している人たちと懇意にさせてもらっていたから、彼らがデモで主張するメッセージに共感していたし、はじめてデモに参加した時は、それを街で声に出せることに感動したのを覚えている。
けれどもそれを外から見る人たちの目というのは必ずしも理解を示そうとするものではなくて。奇異なものを見るような視線もときどき感じていた。

どうしてこの伝わらなさが生まれてしまうんだろう。
どうしたら声は届けられるのだろう。
あまりのその開き具合に、また、自分のやっていることが理解されないことに(被害妄想的でもあったかもしれない)思いつめて、公園で泣いた夜のことを思いだす。伝えられない自分の無力さへの嘆きでもあったのかもしれない。




このあいだ、瀬尾さんと小森さんの展覧会「あたらしい地面/地底のうたを聴く」に行ってトークショーで聞いたのが、「伝わらなさがあったから作品をつくった」ということば。
小森さんと瀬尾さんの映像作品をはじめて見た時に感じた、とても大きな驚きのようなもの。
そこには津波の被害にあった女性の映像と、その人自身の語りしかないのだけれど、ドキュメントと演劇が同席している不思議さというのか、そこには大きな飛躍があって。
その飛躍のうらには、ドキュメントだけでは伝えきれないという切実さがあったのだそう。

それから、彼女たちが陸前高田で生活をしながら作品つくりをしていたのは、そこにあるものを感知できるようにするための体づくりだったとも言っていた。
地域に住まうことで、そこで起こっているいろいろなものごとをより感じられるようになる。
イメージが蓄積されるとそれを外に出すという行為をする。
それが彼女たちにとっては見えた現実に応答することで、「イメージを受け取りました」という表明だとも言っていた。

この世には、たくさんの言葉があって、たくさんの言葉にならなかった思いがあって、耳から目から鼻から触感から、いろいろなところに情報というのはあるのだけれど、それをどう掴まえるかというのは同じところにいても人によって全然違って。

わたしがわかめの会の人びとや、農村で出会う人たちから語られた言葉や、そのとき感じたイメージというものは、わたしのやり方でしか受け取ることはできないもので、違う人だったら同じようにその人でしか受け取れないものがあるのだろう。
ときどき何に文章を書かされているのだろうと思うことがあるけれど、
わたしは毎日いろいろなひとやことものからたくさんのものを受け取っていて、それをなかったことにはできないというか、その大きさにおののきながらも、でもだからこそ、それを伝えなければいけない、書き留めておかなきゃいけない、そんな気持ちになるのです。

大きな壁のような、巨大な伝わらなさが横たわっているからこそ、そのヒリヒリとしたもどかしさをどうにかしたいと思うから、わたしはいまこうしてここにいるんだなあとぼんやり思う。
こういった志向は、これまで世界中にあるたくさんのものを産みだしてきたのではないかしら。

受け取るイメージはなまもので、それが失われてしまうことがないように、取り逃がしてしまうことがないように、そのときこうでしたと捕まえておくためにものをつくるのだろうか。
失われてしまうことを極度に恐れる必要はないとは思うけれど、わたしが図書館に行くとなぜか安心するのは、ここにはなまものではなくて、もう逃げることのないものがぜんぶあるとそう思うからなのかもしれない。

わたしも、瀬尾さんや小森さんのように、感知してそれを伝えるための体づくりをせねばと思っているところです。
伝え方は本当にいろいろあるのだけれど、
この国の首相や政治や経済を見ていると、頭でっかちカチカチに凝り固まって身動き取れなくなっているように見えるから、
淀んだ部屋に気持ちよく風が抜けるような、踊りだしたくなるような気持ちのいいことをしたいなと思っています。



わたしの仙台案内。



だいぶ日が経ってしまったけれど、先月、たまっていた代休を使って久しぶりに仙台へ行ってきました。

3年前まではここで暮らしていたのだなといろいろ思いを馳せながら、あちこちへ出かけたり、お世話になった方たちに挨拶しに行ったり。
今回行った場所は、自分のメモ用と勝手な宣伝用にとFacebookに載せましたが、追記を含め、こちらにも再掲しておきます。

***

ごはんやさん

●パンフレーテ
学生時代にバイトしていたレストラン。地下鉄の北四番丁から歩いてすぐ。畑の恵みピザ、野菜の寿司などユニークなメニューがたくさん。バイトしていた時はお昼に出るまかないが本当に楽しみだった。今回は職場の先輩後輩と食べて飲んで。相変わらずおいしかった。

●来々軒
塩釜駅から歩いて行ける昔ながらの中華そば屋さん。雄さんに連れて行ってもらいました。優しいお味でほっとした。休日のお昼だったからかけっこうな行列ができていました。

●喫茶ホルン
smtからすぐ。今回2回も行ってしまった。仙台でバンドをしているyumboの渋谷さんとなつみさんが営むお店。南インド風カレーはもちろん、コーヒーも、なつみさんの手作りおやつもおいしい。常にナイスな音楽がかかっていて、置いてある本も雑貨も秀逸。最近は無農薬野菜も置き始めたようでした。

●コクトー (Cocteau)
仙台駅東口からすぐ。静かで雰囲気のよい喫茶店。ご飯もお酒もいけます。

●ナマスカ 仙台南町通り店
仙台駅西口から南町通り歩いて行けます。インドカレーの店。ボリュームたっぷり。店内ひろし。わかめの会のみなさまに連れてもらい始めて入店。カレーもナン(チーズナンも)もスナックもおいしかった!

●ノートルシャンブル
仙台駅から泉方向へ、バスで4,50分。閑静な住宅街の中に素敵な建物が。地元の野菜を使ったごはんとおいしいお茶が楽しめます。併設している『あしたのたね』さんでは素材にこだわった調味料や地元の減農薬・無農薬野菜も売ってました。

***

美術館etc.

●芹沢銈介美術工芸館
東北福祉大のキャンパス内。前に住んでいた家からすごく近かったのに行くのは初めて。展示終わったばかりで常設のものだけだったけれど、見にいけてよかった。色使いと、踊るような文字が美しかった。息子さんが東北福祉大の名誉教授だったんですね。

●塩釜市杉村惇美術館
雄さんが車で連れて行ってくれたところ。着く前にハプニングありましたが、美術館の雰囲気もちょうどやっていた美術展(佐野美里彫刻展 Say Hello!)もよかったです。もともと公民館だったところをリノベーションしたらしく地域に馴染んでいました。川村さんにも会えてうれしかった。

●フォーラム仙台
学生の頃会員カードつくってしょっちゅう通っていた映画館。単館系でいい作品を上映しています。観たのは河瀬直美の新作『あん』。樹木希林が素晴らしすぎて一緒にいたあいちゃんもわたしも気付いたら号泣していました。

●smt(せんだいメディアテーク)
ここも学生の頃しょっちゅう通っていました。図書館では人を待つ合間に森達也の『A』を観ました(地下鉄サリン事件後のオウム信者ドキュメント)。
7階では、映像作りとか人生相談諸々でお世話になっていた学芸員の清水チナツさん、清水建人さん、伊藤裕さんに挨拶できました。

●カネイリミュージアムショップ
smt1階に併設されているミュージアムショップ。東北の職人が作る伝統工芸品、デザイン・アート書籍、 雑貨を取り扱っているお店です。ショップ店員のしょうこさんが並べていた本のセンスが良すぎて、花森安治『一銭五厘の旗』、井上ひさし『子どもにつたえる日本国憲法』等々、思わずたくさん買ってしまいました。



●東北大学雨宮キャンパス
来年取り壊し、移動になってしまう農学部キャンパスへ。緑が多くて気持ちいいところでした。あいちゃんが研究室にあったホタテを分けてくれました。

●火星の庭
仙台駅西口からも歩いていけるブックカフェ。古本も新刊も雑貨もあります。仙台の良心的本屋さん。ときどきイベントもやっています。

***

会った団体

●短距離男道ミサイル
演劇やっていたときの知り合いがたくさん参加している男臭く、強烈な団体。総合演出の澤野さんがパパに、代表が同級の本田くんになってました。ミサイルはほとんどの舞台で裸になるからかわからないけれどみんないい身体しています。夜中に数人で飲んだの、楽しかったな。みんな宵っ張り。

●文化人類学研究室
3年間お世話になった研究室。大好きな先生に会えました。毎年恒例のカレーパーティーの日だったので飲み会にもたくさん人が集まっていました。知らない後輩がほとんどだったのですが私が書いた卒論知っている子たちがいてうれしかったです。そしてみんな好奇心のかたまりみたいに目がキラキラしていてなんだかまぶしかった。

●わかめの会(三陸・宮城の海を放射能から守る仙台の会)
卒論でフィールドワークさせてもらった市民活動団体。震災前から原発や再処理工場のことを自分たちで勉強したり広く伝える映画の上映会などをしていて、わたしは震災後彼らに出会っていろいろなことを教えてもらいました。今回はみんなでカレーを食する会を開いてくれました。おなかいっぱいむねいっぱいになって帰ってきました。

***

という感じで、いろんな人にお世話になっていろんなところに行けて会えて話せて、本当に仙台好きだなーと思いました。大学4年間、ただ鼻垂らしていたわけじゃなくて、素晴らしい人たちにたくさん出会えていたのだなとわが身の幸せを噛みしめました。

そして、あの4年間、モラトリアム的な時間の中で、不断なくと言ったらうそになるけれど、毎日悩んだり、考え続けてきたことというのがいまのわたしにつながっているのだなということも改めて実感できたことがとてもうれしかった。


2015年7月4日土曜日

愛すべき人びと

さようなら、さよなら
元気でね、お元気で

先週からいろいろな場所で、いろいろな人たちと交わされることば。
2年間いた九州を離れることになりました。

今生の別れではないのだけれど、さようならの向こうには、どうもありがとう、いつ会えるだろうか、またどこかで会いましょう、元気でいてね
というたくさんの言葉たちが隠れていて、それは寂しさとともに、その人と一緒にいた時間を思い起こさせる。そしてその余白にある優しさがこころをぽっと明るくしてくれる。


考えてみれば、毎日がはじめまして、さようなら、多分一生会うことのない人たちが大半、という仕事をして約2年。ひとりひとりと過ごす時間というのはほんのわずかなのだけれど、総体として、土着の人びとと過ごした時間はわたしの20数年生きてきた中で相当の重みを持ち、わたしの思考を変えてきた。

わたしは毎日、彼らに恋をして、アタックして、向こうに認めてもらえたりもらえなかったり。わたしは彼らにはなれないのだけれど、彼らの精神性のようなものにどっぷり浸かって、それはひとりひとり違う人であるにも関わらずどこか似通っている。まるで農家という種族がいるような。

このあいだ、長崎県で出会ったイチゴ農家のおばあちゃん。
「今日はぬくかけん」と言って、着ているTシャツ(PIKOのTシャツ)でなんども顔の汗を拭くので、そのたびに下着をつけていないおばあちゃんのおっぱいが露わになる。わたしが止めると「もう歳だけんよかー」。「あなたなら(女だし)いいやろー」。
72歳のおばあちゃんはもう女性というよりも妖精のような生きもの。体面とかとは全く縁のないところで生きていた。
「わたし勤めもしたけど百姓の方がよかー。お勤めだったら決まったお給料しかもらえんけん、百姓は気張った分だけもらえる」。

千葉で会ったタバコ農家のおじちゃんを訪ねたときに、「にょうぼうは風邪で」と言われた。
おじちゃんから発せられる「にょうぼう」という響き、そのことばのぴったり具合い。女房と彼と生きること、畑で仕事をすること、家がつづいているから彼がここにいること、すべてがすべてが何の疑問をさしはさむ余地もなく、どかんと鎮座していて、そのことにわたしはぐうの音も出なかった。

アタマではないところで何かに貫かれて生きている。彼らは動物的でもあって、わたしとは少し遠いところ。身体性と土地と生活とがひとつづきである人たち。ルーツがあるという大きさ、その人のうしろに、巨大な世界が見える。彼らはわたしにはない重さを持っている。
違う場所で生きているのに、皆どこか似た雰囲気を持っている。
わたし、この目に前にも出会ったことがある、と思う。土を耕し、額に汗して、共同体の中で小さいころから同じ場所にずっといる。小さいころから同じ仲間たちとずっと一緒にいる。
絶滅してしまうのかもしれないなあと思いながらわたしはそういう姿をみるたびに何とも言えない気持ちになる。

彼らは大体、わたしが突然バイクで飛び込んで行っても平気な顔をしてむかえてくれる。自分が育てているものを持たせてくれたりする。お母さんはどこからお嫁にきたんですか。嫁入りはタクシー?馬車?ライフヒストリーを聞くとたくさんの言葉が出てくる。
一瞬であってもわたしはその人に近づきたいって強く思うから、そう強く思っていると、初めて来たわたしに対して一瞬、心を開いてくれるときがあって、ああ、なにかが通じたなって奇跡みたいな瞬間。いくどもあって、そのたびにわたしはうれしさとかで泣きそうになる。それはどんな偉い人と話をしたとかいうよりも断然、わたしには大切なことで、そういう宝をたくさんもらってきた。

仕事の内容が変わるから、これまでみたいに毎日農家のところへ営業へは行かなくなるのだけれど、彼らのことはわたし身体で覚えていて、何を見ても彼らの目でもって見てみたいと思う。


最後の1か月間いた長崎はずっと雨で、本当に久々の晴れ間に見えた景色が美しすぎた。九州は千葉よりもだいぶ田植えが遅くて、最近終わったところ。水の張った田んぼはいつみてもきれいだな。


ありがとうとごめんなさいと愛しています。



2015年5月17日日曜日

女王の故郷


この2週間は九十九里。
海がすぐ近くのお宿に泊まり、毎日七転八倒。久々に高熱を出したり、声が出なくなったり、目まぐるしくそれらも過ぎて、どうにもできない思いばかりが有り余るほどあって5月の陽気に弾けそう。

情緒が形成される過程を考えてみると、ひとつの風景を見ていろいろなことを思ったり思い出したり、人を想ったり、それは沢山の土地で沢山の人に出会って出逢ってきたことに依るのではないだろうかというほどこの何年かで涙もろくなったし感じやすくなってしまったな。田んぼの稲たちは力を得てどんどん伸びていくそんな時期です。緑がきれい。

でももっと近づきたくて、それをずっと自分の近くに置いておきたいというわたしの欲が深いこと。
手に持っている小石を手放して大きな灯りを灯すべしです。

場所が変わっていま香取は佐原町。心地よい風が吹く場所でしあわせです。
九十九里の海にはダイブできなかったし利根川にもダイブしない。

意味も分からず歌舞伎町の女王を歌っていた小さい頃を思い出す。九十九里は人も町も良いところでした。イワシをうんとおじいちゃんに送ってあげたかった。



イワシの「さんが(叩いてから焼いたの)」とだんご(イワシのつみれ)汁。美味しかった。海で生きる人たちの知恵とか。


2015年5月2日土曜日

引き伸ばされた春

春が引き伸ばされたのか、冬が引き伸ばされたのかわからないけれど、3月終わりに東京で満開の桜を見てから雪の積もる長野の山奥に一カ月、帰り際になってようやく桜が咲きました。


3月終わりに東京で見た桜。


4月末の白馬で。

この一か月間のミッションはふたつ下の新人研修の面倒を見るというもので、人の面倒をこれまでしっかりみたことないわたしのかねてからの懸案であったのだけれど、結局、人に何か教えるというよりもわたし自身が教えてもらってばっかりの一か月でした。


4月の半ばに来てくれたひまわり会のおばあちゃんたちが持ってきてくれたお手製の料理たち。山菜たくさん使ってくれているけれど、それは去年までの、保存してとっておいたもので作ってあって、小谷村で山菜が取れるようになるのは4月末くらいじゃないかな。一生懸命保存しておいた春の恵みや夏野菜の干したものを使って丁寧に料理して出してくれた。ジャガイモのじゅうね(えごまのこと)和え、美味しかった。
ぼたもちは「半殺し」で叩いたものがこの辺りの主流。春の彼岸には牡丹が咲くからぼたもちで、秋の彼岸は萩が紅葉するからおはぎなんだと教えてもらった。同じものなんだ。

内山さんも上野村に春が来ると山菜がたくさん出てくるからそれだけで安心する(山中の暮らしはそんなに牧歌的ではないけれども)と言っていたけれど、長い長い冬、寒くて暗い冬をどうにかこうにか乗り越えて迎える春というのはどうしたってうれしくて、雪解けとともに顔を出すふきのとう(東北では「ばっけ」、長野のお母さんたちは「ちゃんめろ」って呼ぶ)やタラの芽、独活、こしあぶら、行者にんにく、セリ(どれも好き!天ぷら最高)は春を告げる福音に思える。まだ葉のつかない木々も、膨らんだつぼみですこし色づいている気がする。森の動物たちも動き出す、ひとびとも動き出す。


ニホンリスは冬眠するのかな?とにかくよくご飯食べに喫茶室前の小屋に来ていました。

山に山菜を摘みに、トラクターが畑に、野菜を植えつける、田んぼに水を入れる。
帰りみち、白馬から長野へ行く電車で、ドアが開いた途端カエルの鳴き声が一斉に聞こえて、もうここは田んぼに水が入ったんだなと薄暗がりの景色をぼんやり見た。
ねむっていた熊も、すこしゆっくりだった人たちも、五感や代掻き馬(まだらに雪解けした山に馬の姿が見えるころが代掻きをするタイミングだというのが昔からの言い伝え)なんかを合図に、ネジをまき、ぱたぱたと動き出す、そんな気配があふれていて、もうどうしようもなくわたしだってそわそわしてくるのでした。

***

一カ月間、長野の山奥にいる間、2年前のことを思い出しながら、新人の話や研修中来てくれる講師の話を聞いていた。それは、今まで2年間村を回ってきたことを再確認するようなそんな貴重な時間で。
胃がんの手術を受けて少し小さくなっていた池田玲子さんはさらに気迫を帯び、あのときも同じように3か月、3年、7年で峠が来ると告げられたなとそんなふうに思い出す。そして箱膳でお箸の取り方がなっていないと同じようにおしかりを受けて、叱咤叱咤激励激励。
それは新人の子たちに対してだけではなく、3年坊主のわたしにも届いてくる言葉で、いただきますの裏側にあるものをチビたちに伝えなければ死んでも死にきれない、灰になれないと、彼女のその気迫にわたしは頭が上がらない。

先人たちの食に対する執着というか、知恵や技術にはすごいものがあったんだなと思わせてくれたのが木村さんの講義。ひとは生きるために食べるのだけれど、食べられれば何でもいいわけではなくて、そこには子どもを喜ばせたり、家族みんなの身体をいたわったり、田植え作業をねぎらったり、日常の苦楽すべてが詰まっている。
「おいしい」という表現もいろいろ。胡桃は子どもたちの大好きな味。東北では美味しいものを食べるとうれしそうに「胡桃味がする」と言う。
ハレとケでそれぞれ主婦たちの腕は毎日フル回転で、同じものはなくて、季節ごとにそこにある恵みをどう生かすかという知恵が溢れまくっていたのだろう。
今から100年前くらいの食文化を残そうと「日本の食生活全集」を編集した木村さん曰く、「コメはいろんな地域食材を呼び寄せる」。
麻をつくっている湿地でえびじゃこが取れる。そのころダイコンは間引きの時期。間引いたダイコン、えびじゃこ、里芋、米、麦と大豆の味噌を重ねて釜で蒸し上げてむしあげ雑炊をつくる。海の幸、山の幸、畑の産物を結集させて、食べて、生きていた時代の話。
屋敷周りの豊かな畑や木々、水場。小さな村でエネルギーも食べ物も、排泄物も循環して、そこの風土を十二分に活かして作られた特産品なんかは結構全国的なネットワークで流通していく。塩の道もそう。
流通の過程で文化も伝播していく。小さな村だけど、そこで閉じているわけではなかった。


小さい頃に読んだ菊池日出夫さんの「さんねんごい」。
屋敷まわりの絵がすごくいい。山があって川があって集落があって田んぼ、畑。家では牛や馬が飼われている。鳥が飛んで魚が泳ぐ。子どもたちが走る。大人たちは田んぼや畑に出ている。
改めて読んでみて知ったけど菊池さんは長野県佐久の出身の人だった。だから鯉なのかと納得。

***

小谷村で聞いた内山節さんの話もとてもよかった。彼の本を読むと、農村で生きることに誇りが持てるようになる、毎日の日々の暮らしや働きに光が当たるようだ、と熊本でお茶農家を営むお母さんが言っていたようだけれど、彼の講演もユーモアと素朴な愛にあふれていた。彼を見て「春の熊のような人だ」と言った新人がいたけれど、本当にそんな感じ。こんな時代でもなんとかなるみちはあるんじゃないかと、それぞれがそれぞれの場所で、あるもので協力しあってやっていくしかないよねとやさしく背中を押されたような。
最近漢方が流行っているけれど、昔はどこでも通用する薬草などはなくて、その土地で一番生命力のある植物がその土地で生きる人たちの一番の薬になっていたという話にも、ものすごく合点がいく。
どうして、よそのものやお金に頼ることしかできなくなってしまったんだろう。高度経済成長とか、そんなものの間に、知らぬ間に奪われていった知恵がたくさんあるんだろうなと思った。学んで、少しずつでも取り戻すことはできるんだろうか。

***



雪の残る小谷村から実家に帰ったら、浦島太郎みたいで、もうこちらは青青青の波。
5月はすべてが美しい。
木の葉を揺らしながら届く5月の風は、それはそれは気持ちよくて、木々の呼吸もそこにあるからなのかも知れない。さざめく音は子守唄。昼寝最高。

ますみさん、今年もうちのモッコウバラは高らかに咲いています。


ニャーがいなくなってからもう1年。

2015年3月23日月曜日

名を知るは愛のはじまり

 ますみさんが去年の春、花の名前を覚えて喜ぶわたしにそんなことを言ってくれたのだった。

去年は2月、3月と沖縄にいたから梅の花を見たのは2年ぶり。
ひさびさに見てああすごく好きだなあと思いました。つぼみもまあるくて愛らしい。
つげ義春のような寒くて暗い冬をすぎて、カマキリのぐらぐらを経て出会う春の色はどれもこれも感動的。


寮の前で香る沈丁花のにおいに心躍り、



寮の近くの道路脇でいつも花を植えているおばちゃんの庭には野の花が満開。







マンサクに始まり、蠟梅、さんしゅうゆ、菜の花、トサミズキと黄色の花がぴかぴか。

マンサクは春のはじめに咲くからマンサクなのだよと教えてもらう。東北でいう「まんず」「咲く」からマンサク。
トサミズキの名前も教えてもらう。きれいだきれいだとわたしがはしゃいでいたら、集落に花木をたくさん植えていたおじさんが「持ってきな」と持たせてくれた。

***

先々週は、福岡県の久留米市へ行った。
園芸が盛んなところで、フィリピンの実習生を何人もつかって小松菜や水菜や春菊などの葉物をたくさんたくさんつくる。これがいけいけどんどんか、というほど、若い人たちに活気がある。TPPも葉物には直接影響ないだろうとあまり憂うこともなく、アルファロメオとか家先にあったりする。
前のわたしだったら相当ひいていたんじゃないかと思うけれど、そうやってそこの地で元気に暮らしている人がいることはいいことじゃないの、それはそれで、そういう農家だって必要なんだと思ったような。茨城の鉾田を回っていたことを思い出して、あそこでつらかったこともなんだかこうしてつながっているんだなあとか。

久留米で出会ったバラ農家のお父さん、「葉物屋さんはいま需要あるし元気あるけど、花農家は今の時代元気ないよ」と言っていた。確かに、バブルの時代と比べると、花を飾ったり愛でたりすることにお金を費やす人ってきっと減っているのだろうな。わたしもバラを買って飾ったりする習慣はないけれど、その前の週に会ったバラ農家のお家で見させてもらったバラがびっくりするくらいきれいで、いい匂い。お願いして1本100円でいただいたのだ。お腹はいっぱいにはならないけれど、美しいものはこころを満たしてくれると思う。



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翌週は、大分県日田市へ行く。
わたしは旧天瀬町を回った。
はじめて行ったその日から、いっぺんに村のことも、村の人も好きになる。


古園という集落に行くと、毎年恒例のおひなめぐりというものをやっていて、家々の庭、路傍や玄関などにぽつんぽつんと、あるいは家のなかにずらりとならんでいるおひなさまたちに出会った。






なかでも目をひいたのがおきあげ雛というお雛様たち。裏は新聞紙で、竹の棒が台に刺してある。82歳になるおばあちゃんの初節句で揃えたものらしく、70年間箪笥にしまってあったのに虫食い一つもなくて素晴らしい出来。はじめてみたけれど、これには感動してしまった。表情豊かで心躍ってしまう。


御殿雛はその娘さんの初節句で揃えたもの。年代で雛様の様式が変わっていて面白い。

いままでおひなさまってそんなにありがたいものと思ったりとくべつ好きだなと思ったことなかったけれど、80過ぎるおばあちゃんも、50代くらいのその娘さんも、ああ、ちいさいころがあって、その誕生をさらに年上のお父さんやお母さんに祝われて、愛されて、そのことがうれしくて、80過ぎのばあちゃんのほほえみの向こうには少女の時代の記憶があって、おひなさまはその象徴であるような気がして、一体一体のおひなさまを見るにつけそれを熱っぽく見つめた小さなまなざしのことを感じてなんだかとてもとてもうれしい。

 一軒一軒飾り方も飾る場所も違って歩いて巡るの楽しかった。
みんなの家にあるもの持ち出してお金をかけない地域おこしを10年以上も続けている古園集落。
土日は公民館でばあちゃんの漬物カフェも開かれる。
「田舎のばあちゃんたちは漬けもの漬けても家では「もういらんばい」とか言われて喜んでもらえないけれど、よそから来た人はものすごく喜んでくれたり作り方を聞いたりする。おばあちゃんたちも褒められたり必要とされることがものすごく大事なのよ」と発起人のお母さんが言っていたのを聞く。

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愛子さんは雨の日にお邪魔したお家のおばあちゃんで、家に飾ってあった水仙がきれいですねと褒めると、「水仙が雨に叩かれてかわいそうだから摘んできたの」とかえってくる。少女のようなおばあちゃん。一緒に住んでいる息子たちのことを「せいちゃん、てっちゃん」と呼んでいる。わたしは帰ってくる息子さんを待つ間、愛子さんといっしょにミルク泡立ててコーヒーにのっけてみたり、ケーキをたべたり、むかし話を聞かせてもらった。

「わたし生まれたまんまでお嫁に来たの」
19歳で世間知らぬままとなりの町からお嫁に来た話や、優しいお舅さんにおそろいのワンピースと靴を買ってもらってうれしかった話を昨日のことのように、はじめて会った私に語りだすのだ。
実家のある日田市で毎年4月末にある観光祭という水のお祭りの時期になると、「よこおてきなさい(休んできなさい)」、「母ちゃん乳を飲んできなさい」とお舅さんに言ってもらい、田植え休みをもらって里に毎年帰してもらった。それが楽しみで、知らない土地でも頑張れたのよと。その時お祭りに持って行ったのがチマキとサンキラ団子。サンキラは柏の葉の代わりに使う柏餅のようなもの。「その祭りではね、花火が上がって、踊り子が踊って、屋形船がでるの」少女のようなお母ちゃんが目を細めてうれしそうに話す。

名前のあるものにはみな、ものがたりがあって、それを知ることはとてもすてきなことで、うれしくなる。

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週末は久々に実家に帰る。福岡と沖縄で買ってきた器に料理を盛る。日田で買ったオチアユのうるか(塩辛)を兄のバケットにつけて食べる。
畑で摘んできたふきのとうとセリをてんぷらにしてもらって食べる。
春の味はすこし苦くて、愛おしい。


2015年2月16日月曜日

夢見るユーカリ

散歩していたら、木蓮のつぼみがふっくらしていて、福岡はもうすぐ春が来そう。

足と手を動かせば歩いていけるように、鉛筆で形をなぞると絵が描ける。心もとない時には小さくても確かなことをしてみるとほっとする。
何も言わないものとじっと向き合うのは久しぶりで、心地よかった。


ユーカリは茎や葉の縁の赤がきれい。粉をふいたような硬質の葉の表面もなんだかおとぎ話みたい。


部屋においておいたら愛おしくて、一つでも植物があるとなんだかうれしい。

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昨日行った山都町の図書館で、内山節さんの話を聞く。そのとき内山さんが口にしていた、共に生きる社会という言葉が全然嫌味でなく、びっくりするほど普通の言葉で、そのことになんだか感激してしまった。

共に生きる社会は共に生きる経済をつくることで成り立っていく。地域の労働体系を維持しデザインしていくこと。森林関連産業を基幹産業とする上野村の話は、アベノミクスとは真逆の、優しくしなやかで確かな話だった。わたしは大きなふとんをいっしょになって使っている人びとを思い浮かべる。




写真は最近行った東峰村と八代市。
雪の中で見た小石原の田圃は、その土地で作られている焼き物にある、飛び鉋という模様によく似ていた。

八代は一年前にもいったのだけれど、遠い遠い昔のことのよう。夜道、製紙工場の煙突から出るどうとうと出る煙を見ていたらなんだか笑ってしまった。





2015年1月23日金曜日

大きなふとん

不思議なもので、週の初めのころまでは、「海の上のピアニスト」のことを考えてばっかりで、おふとんから出たくない気持ちになっていたのに(わたしは88の鍵盤すら上手く使えないのに)、むりくり仕事で外へ出つづけていたら、大海原と思っていてもどこかで世界はつながっていて、そのちいさなつながりをひとつひとつ拾い集めていたら今までの自分を肯定できるような気がして、すてきな人やきれいな景色や美味しいものに出会ったら、やっぱり好きな人たちに口々に告げて回りたい気持ちになる。

このあいだ久々に仙台に行った。友達の家でお互いに愉気をしあったら、とてもとてもあたたかくて、心地よかった。一つしか布団がなかったので身を寄せ合って寝たのだけれど、やはり二人が寝るには少し布団は小さすぎて、なのでわたしは想像で、大きくて暖かい布団のことを思い浮かべたら、とても幸せで優しい気もちになった。

メディアテークの「記録と想起」展で見た瀬尾さんの絵には、震災でめちゃくちゃになってしまったはずの町を、そっと包み込む優しい優しい天使が描かれいて、それは本当にやさしい眼差しで町を見つめていて、なんだか夢のようでわたしはうっとりしてしまった。

山に囲まれた小さな村はとてもとても狭くて息苦しいものでもあるのだけれど、わたしにはそれが心地よくて、外に出ることがとても億劫で、変な野望でぎらついて外を見ている人がなんとなく苦手で、小さな村にお布団をかけて、みんなであったかくしていられたらいいのにって甘い夢を見る。
遠くのこと、たくさんのことを知りたいと思う一方で、ふと、近くの人やことをどんどんと取りこぼしながら生きているような気がしてとても怖くなる時がある。

世界が大きな布団に入るくらいの大きさで、優しいものばっかりしかなければいいのに。広がれば広がるほど、つながりを意識することがとても難しくなってしまって、だからいま持っているものを守ろう守ろうと意固地になっているのだけれど、でもだけど、いま持っているというのも幻想で、すべて放っておいても死なないし、生きているものだなとも思います。
狭い場所にいても、宇宙と繋がっている人はたくさんいて、それがいいなあと憧れる。

うきははとても良いところで、帰りみち、山の連なりに低い雲が影をまだらに落としていたのが綺麗で、海と山だったらなんだかわたしは山の方が安心してしまう。
海は、やっぱり少しこわいかもしれない。


向こう側は日田。

晴れた朝の、つんと鼻につく寒さの中で見た、耳納連山はそれはそれは本当にきれいだった。

2015年1月1日木曜日

あけまして、


新年明けました。

年賀用にようやく描いた絵が羊ではなくて宇宙に投げ出された毛玉になってしまいました。
浮遊しているのは仕事柄、でも何処かで手を出し顔を出し、いつか着陸する場所を見つけられるといいなあ。

年末年始、来し方行く末をのんびり考える時間を持てたのは久しぶりで、とてもありがたいことでした。光のある方へ少しずつでも進んでいけるよう精進します。

今年もどうぞよろしくお願いします。