2014年1月3日金曜日

としのはじめに

年が明けました。


今年わたし年女です。
そんなこともあり、草原(海原でもある)を駆ける馬を描いてみました。
火山は噴火しようとしているのか、してしまったのか。夜空を照らす星々は喜ばしいことなのか、天変地異なのか。
とりあえず、馬は明るい方向に向かって走ります。


ハチドリのひとしずく
天を飛ぶ鳥はハチドリ。
ハチドリという鳥にはとくべつ思い入れがあります。
3月11日に震災と原発事故があってから、日本のエネルギーの現状やこれからのことについて、自分の思いや言葉がなかなか近くの人に伝えられず悶々としていた時に出会ったのが工藤瑞穂さん。
三陸・宮城の海を放射能から守る仙台の会、通称・わかめの会での活動がきっかけでした。
女川原発や六ヶ所村の再処理施設など、昔から原発やエネルギーについて考え活動していた人たちに励まされた分、まったく無知であった自分たちの世代でもこの問題を一緒に考えて話し合いたいとおもっていました。

そんな時に、瑞穂さんがエネルギーについてあまり知らない自分たちの世代でもふらっと立ち寄れてこれからのことを話し合えるような場所を作ろうと話を持ちかけてくれ、2012年3月24日、一にHaTiDORiというイベントを行うことに。

それから今に至るまで、仙台のクラブハウス・パンゲアやせんだいメディアテークを会場に、知識や情報を共有し対話する場と、音楽や踊り、アート、フードなどを通して自分たちの思いを表現する場を融合したイベントを定期的に開催してきました。
(→HaTiDORi



イベント名のHaTiDORiは、「小さくてもわたしにできることを」と、燃えている森にくちばしで一滴ずつ水を運んだハチドリの逸話から取った名前。

私は今仕事で九州にいるけれど、どこにいてもハチドリのように、小さくても自分にできることをしていきたいなとおもっています(というか自分にできることしかできないのだけれど。じぶんだけのことではなく、もうひとまわりかふたまわりくらい大きな輪のことを考えながら)。

(写真は、去年三月にやったハチドリの会場、パンゲアで撮ったもの。お飾りに相当、力を入れています)


うちのお正月

去年は卒論締め切り間際で年末年始実家に帰っていなかったから、今年はひさびさに家でゆっくり。毎年母親が結構しっかりお節をつくっていたのだけれど、今回は去年母のお兄さんがなくなってしまったこともあり、ひかえめ。
それでも、家でとれた野菜をつかったお煮しめ、なます、家でとれたにわとりの卵でつくった卵焼き、とか、つくるところから食べるところまで見てやって味わえるのはとても幸せなことでした。

今年のわたしの抱負は、うまいたべものをつくる、食べる、さがす、です。
せっかく仕事であちこち回れるので地方地方のうまいものを探して食べて、つくれるようになりたいなと。

去年の年末から自炊欲がむくむくと出てきたので、さっそく家でもなにか作ろうと思っていたのだけれど、正月の実家にはお節をはじめ、たべものがあふれていて、幸せなことなのだけれども、特にたべものは何もつくらず仕舞いでした。

その代り、飲みものを。
ゴボウ茶と、サングリア。
サングリアは、もらい物の果物がたくさんあって白ワインもあったからただそれを漬けただけ。
ゴボウ茶はちょっとさいきんはまっているもので、飲むとお通じがよくなるんです。12月に愛媛県に行っていたのだけれど、立ち寄った道の駅で売っていたゴボウ茶を会社のひとたちと飲み始めてから大流行り。香ばしくて、おいしいうえに、水溶性の食物繊維が茶の中にたくさん入っているので快調(快腸)に。
で、家に帰ってきてからもお土産のゴボウ茶飲んでいたのだけれど、ゴボウは家にあるしお茶つくろうよと母親と意気投合してつくりました。ゴボウ茶。
スライスしたゴボウを2,3日干して、チップ状に砕いてから弱火でじっくり煎ったらできあがり、という簡単な作業なのだけれど、じぶんでつくるのはやっぱり楽しい。煎る作業は結構時間がかかったけれど、ちのみちとおしながら、腰ふりながら、踊りながらやったらほんとうに楽しかった。

この年末年始、実家で過ごしてみてしみじみ感じたのは、わたしのたべものへの執着、というか情熱、みたいなものは実家で植えつけられたのだということ(とくに父はその傾向が強い)。
年末、家に帰ってくるなり、おでんの話。今回練り物がなかった、卵が入っていない、味が薄いとかで大騒ぎ。
たくさんつくってあったから次おでん食べるときは卵を入れようとなったのだけれど、今にわとりさんたちが寒くて卵をそんなに生んでいないから自家用卵があまりない、じゃあ何個入れる?6個は入れすぎ、お正月の卵焼きが作れなくなる、じゃあ3個。きれいにゆで卵つくるのにはどうすればいいんだっけ、常温に出しておく?ゆでる時に沸騰する前、水から入れておくんだっけとかいいながら。結局うまくむけなくてぼろぼろになってしまったのだけれど、やっぱり卵が入ったおでんは美味しかった。


ふたたび、安倍晋三
このあいだ、としのおわりに で安倍晋三のこと、みくさのみたからのこと、たべもののことなど書いたら思いがけずいろいろなひとからレスポンスが。自分がふだん思いもしないことを考えている人がいたり、いろいろな意見を聞けてすごくありがたいことでした。

そしてまた、わたしは彼のことを考えてしまう。愉気してあげたいとか言いながら、年末のニュースで彼の顔がテレビに映って株価がどうのこうの、アベノミクスがどうのこうの、聞いたとたん、そんな気持ちはどこかにいってしまっていて。分かり合えなさみたいなものから憎悪ににた感情をもってしまったのでした。ふう。

あなたはどこを見ているんですか、と言いたい。わたしは農村を回るたび、年老いた農家の人たちの溜息を聞きます。
減反廃止したら農業を続けられなくなる。TPPが来たらもうコメをつくってもしょうがない。おれたちは切り捨てられたんだ。って本当に悔しそうに。泥から、種から、うまいものをつくって、そのいのちをわたしたちに届けてくれている人たちを放って、なんでそんなに笑って、自分がしていることを肯定できるんだろう。あなたが食べているものはどこのだれがつくっているものなんですか、その人たちはどうやって生活しているか考えたことあるんですか。お金とか、目先の利益を追求したところで明るい未来なんてあるわけないでしょうってどうしても思ってしまって。

でも、彼が言う「美しい日本」や「とりもろす」という言葉にはわたしたちが共有しているいまの空気みたいなものが現れている気がする。
無意識のうちにも、3月11日以降失われてしまったものというのは、わたしたちのこころに大きな傷跡を残しているのではないか。とりもどせなくなってしまったもの、海のもの、山のもの、空気、水、生活。この地に生きている限り、意識していなくても、からだは 自然であるので、やっぱりその欠如をひしひしと感じているとおもうのだ。
でもそのとりもどし方がみんなわからない。わたしは足元から、土から見直すしかないと思っているから、泥からたべものをつくっているひとたちを見て回りたいと思って、いまあちこちに足を運んでいるのだけれど、そこには本当に豊かなひろがりがあります。じぶんでいちからつくれるのだということ。
でも、そのすべを知らなければ、どうやってその欠如を満たせるのかと考えた時に、お先真っ暗な「尖りきった岬(わたしの父の言葉を借りれば)」に向かうほかなくなっているのではないだろうかとおもう。安倍晋三の思いつめたような言動をみているとそんな風におもえるのだ。

そこに至る気持ちがわかったとしても、しかしその岬から一緒に心中するのはごめんです。馬のようにしなやかにちからづよく、鳥のように自由にかろやかに、光のさす方へ跳んで飛んでいきたいのです。

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